フランソワ・デュコー=ブルジェ
モンシニョール・フランソワ・デュコー=ブルジェ(François Ducaud-Bourget, 1897年11月24日 - 1984年6月12日[1])は、著名なカトリック聖伝主義のフランス人司祭であり高位聖職者、また聖ピオ十世会創設者のマルセル・ルフェーブル大司教の親しい協力者でもあった人物である。
生涯・人物
[編集]フランスのレジスタンス運動
[編集]フランソワ・デュコー=ブルジェはボルドーで生まれた。第二次世界大戦中、彼は司祭としてフランスのレジスタンス運動に参加し、ユダヤ人がスペインに逃げるのを手助けし[要出典]、その功績によりシャルル・ド・ゴール政権から勲章を授与された[要出典]。
彼は1946年にマルタ騎士団のチャプレンに任命され[2]、教皇ピオ12世の時代には高位聖職者に任命された[3](公的文書は不明であるものの、後にこの称号は剥奪されたと思われる)。
第2バチカン公会議を受けて
[編集]第2バチカン公会議に伴うローマ・ミサ典礼の改訂を拒否し、以前は病院であったパリの Hôpital Laënnec のチャペルにてラテン語のトリエント・ミサの執行を組織した。1971年に彼が当該チャペルから追放されたとき、当時のパリ大司教 François Marty 枢機卿からトリエント・ミサのみが執行される別の場所を得ようと努めたが、無駄に終わった。これに伴い、1977年2月27日にサン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会の乗っ取りを組織し、当該教会の主任司祭を追放した[4][5][6]。
1984年にサン=クルーにて86歳で死去し、サン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会に埋葬された。墓の上には彼の胸像が置かれている。彼の後任としてフィリップ・ラゲリ神父がシャルドネ教会の責任者となった。フィリップ・ラゲリ神父は、後に「善き牧者会」(英: Institute of the Good Shepherd) を設立した。
ポップカルチャー
[編集]ジャン・ドロードは、著書 Le Cercle d'Ulysse の中で、シオン修道院の "Nautonnier"(グランドマスター)として、ジャン・コクトーの後継者としてデュコー=ブルジェを紹介している。
参照
[編集]- ^ “Mgr François Ducaud-Bourget”. La Porte Latine. 聖ピオ十世会フランス管区. 2023年7月5日閲覧。
- ^ “Mgr François Ducaud-Bourget”. La Porte Latine. 聖ピオ十世会フランス管区. 2023年7月5日閲覧。
- ^ Ducaud-Bourget resigned his title of Chaplain in 1976, according to H. J. A. Sire, The Knights of Malta, pg. 277 (Yale University Press, 1994); ISBN 978-0-300-05502-3
- ^ “Mgr François Ducaud-Bourget”. La Porte Latine. 聖ピオ十世会フランス管区. 2023年7月5日閲覧。
- ^ ジャック・プレヴォタ 著、斎藤かぐみ 訳『アクシオン・フランセーズ フランスの右翼同盟の足跡』白水社〈文庫クセジュ〉、2009年、135頁。
- ^ “Les 30 ans d'occupation de Saint Nicolas-du-Chardonnet”. Le Nouvel observateur. (2007年2月27日). オリジナルの2007年4月4日時点におけるアーカイブ。 2023年7月5日閲覧。