フランシス・ブラウン (第4代キルメイン男爵)
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第4代キルメイン男爵フランシス・ウィリアム・ブラウン(英語: Francis William Browne, 4th Baron Kilmaine、1843年3月24日 – 1907年11月9日)は、アイルランド貴族。保守党に属し、1890年から1907年までアイルランド貴族代表議員を務めた[1]。
生涯
[編集]第3代キルメイン男爵ジョン・キャヴェンディッシュ・ブラウンと2人目の妻メアリー(Mary、旧姓ロウ(Law)、1816年1月21日 – 1888年4月23日、チャールズ・ユワン・ロウ閣下の娘)の息子として、1843年3月24日にロンドンで生まれ、同地で洗礼を受けた[1]。ダブリン大学トリニティ・カレッジで教育を受けた[1]。
1870年、ウェストミーズ県長官を務めた[1]。
1883年時点でメイヨー県に11,564エーカー、ウェストミーズ県に2,122エーカー、ロスコモン県に979エーカーの領地を所有し、合計で年収7,499ポンドに相当した[1]。
1890年2月にアイルランド貴族代表議員に選出され、1907年に死去するまで務めた[1]。
晩年に神経衰弱をおこし、1907年11月9日にパリで飛び降り自殺して死亡[2]、ポーのイギリス人墓地に埋葬された[1]。一人息子ジョン・エドワード・ディーンが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1877年6月6日、アリス・エミリー・シュート(Alice Emily Shute、1925年2月7日没、ディーン・クリスチャン・シュート大佐の娘)と結婚、1男をもうけた[1]。
- ジョン・エドワード・ディーン(1878年3月18日 – 1946年8月27日) - 第5代キルメイン男爵[1][3]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1929). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Husee to Lincolnshire). Vol. 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 256–257.
- ^ "Lord Kilmaine's Suicide". Kalgoorlie Miner (英語). 12 November 1907. 2023年8月24日閲覧。
- ^ "PEER DIES OF POISONING; Lord Kilmaine, 68, Was Critic of Press and Radio". The New York Times (英語). 29 August 1946. p. 5. 2023年8月24日閲覧。
アイルランドの爵位 | ||
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先代 ジョン・キャヴェンディッシュ・ブラウン |
キルメイン男爵 1873年 – 1907年 |
次代 ジョン・エドワード・ディーン・ブラウン |