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フランシス・オリファント (第5代オリファント卿)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第5代オリファント卿[注釈 1]フランシス・オリファント英語: Francis Oliphant, 5th Lord Oliphant1748年4月18日没)は、スコットランド貴族

生涯

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フランシス・オリファント(Francis Oliphant、1661年頃 – 1708年9月、初代/第6代オリファント卿パトリック・オリファントの息子)とメアリー・リデル(1672年頃 – 1712年以前没、ジェーン・リデルの娘)の息子として生まれた[1]。両親が亡くなった後、兄ウィリアム(1721年以前没)は同族の人に引き取られ育てられたが、フランシスは遺棄された[2]。1721年1月に伯父チャールズの息子パトリックが死去し、(伯父ウィリアムジャコバイトで、1715年ジャコバイト蜂起に参加したため)本国政府からみてフランシスがオリファント卿を継承した後もオリファント家の親族はフランシスの行方を探さず、1725年にようやくその消息をつかんだ[2]。その後、マーシャル伯爵夫人メアリー・キース(Mary Keith、1729年3月7日没、第9代マーシャル伯爵ウィリアム・キース英語版の妻)に引き取られ教育を受けた[2]

1728年12月27日に伯父ウィリアムが死去すると、名実とともにオリファント卿の爵位を継承[1]、1733年3月6日に正式に確認された[2]。以降1733年から1747年までのスコットランド貴族代表議員選挙で投票した[2]

1747年1月18日、ロンドンでメアリー・リンリー(Mary Linley、1748年8月1日以降没)と結婚した[3]。同年に150ポンドの年金を与えられたが、支払いは1回しかなされず、しかも支払い時点ですでに死去していたため未亡人となったメアリーが受け取った[2]

1748年4月18日にイズリントンで死去した[2]。これにより第4代オリファント卿ローレンス・オリファント英語版(初代/第6代オリファント卿パトリック・オリファントの祖父)の男系子孫が断絶、1633年の叙爵では爵位の継承権が初代オリファント卿パトリックの男系子孫にあると定めていたため、1633年創設のオリファント卿は断絶した[1]。第4代オリファント卿ローレンスの兄ピーター(1594年10月24日没)の子孫にあたるウィリアム・オリファント(1751年没)はオリファント卿の継承を主張、1750年のスコットランド貴族代表議員での投票を許可されたが、『クラクロフト貴族名鑑』はこれが1633年の裁定(1630年頃の爵位放棄により、15世紀創設のオリファント卿は消滅した)に反することであるとした[1]

注釈

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  1. ^ オリファント卿の爵位は1630年頃に一旦放棄され1633年に再叙爵された経歴があり[1]、『クラクロフト貴族名鑑』では1633年の叙爵から代数を数えたため本記事の人物は「第5代オリファント卿」であるが、『スコッツ貴族名鑑英語版』では15世紀の叙爵から数えており、本記事の人物を「第10代オリファント卿」としている[2]

出典

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  1. ^ a b c d e "Oliphant, Lord (S, 1464 - 1748)". Cracroft's Peerage (英語). 13 July 2012. 2019年11月23日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h Paul, James Balfour, Sir, ed. (1909). The Scots Peerage (英語). Vol. VI. Edinburgh: David Douglas. pp. 560–561.
  3. ^ Cokayne, George Edward, ed. (1895). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R) (英語). Vol. 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 121–122.
スコットランドの爵位
先代
ウィリアム・オリファント
オリファント卿
1728年 – 1748年
断絶