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フランク・ユーリッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランク・ユーリッチ
名前
本名 フランク・ユーリッチ
ラテン文字 Frank Jurić
基本情報
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
クロアチアの旗 クロアチア
生年月日 (1973-10-28) 1973年10月28日(51歳)
出身地 メルボルン
身長 196cm
体重 96kg
選手情報
ポジション GK
ユース
オーストラリアの旗 メルボルン・ナイツ
1990-1991 オーストラリアの旗 AIS
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1992-1996 オーストラリアの旗 メルボルン・ナイツ 68 (0)
1996-1997 オーストラリアの旗 コリングウッド・ウォリアーズ 25 (0)
1997-1999 ドイツの旗 フォルトゥナ・デュッセルドルフ 36 (0)
1999-2004 ドイツの旗 バイエル・レバークーゼン 11 (0)
2004-2008 ドイツの旗 ハノーファー 1 (0)
2008-2009 オーストラリアの旗 パース・グローリー 4 (0)
代表歴2
1993  オーストラリア U-17
1994-1996  オーストラリア U-23 15 (0)
1995-1996  オーストラリア 2 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2022年12月4日現在。
2. 2022年12月4日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フランク・ユーリッチクロアチア語: Frank Jurić1973年10月28日 - )は、オーストラリアクロアチアの元サッカー選手、現サッカー指導者。元オーストラリア代表。選手時代のポジションはGK

クラブ歴

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メルボルン・ナイツFCで選手となった。コリングウッド・ウォリアーズSCに移籍したが財政的問題で1シーズンで解散した。

その後はヨーロッパでのプレーを模索したものの、コリングウッド・ウォリアーズ側が移籍金を要求していたために難航、最終的にフォルトゥナ・デュッセルドルフが3万ドルを支払う事で解決した。初年度はツヴァイテリーガで中位につけたが、翌年にレギオナルリーガ降格となった。

しかし彼自身は逆にブンデスリーガバイエル・レバークーゼンに昇格した。アダム・マティセクハンス=イェルク・ブットとのポジション争いを繰り広げながらブンデスリーガで11試合に出場、さらに決勝にまで進出したUEFAチャンピオンズリーグ 2001-02でも2試合に出場した。

2004年6月に同じくブンデスリーガのハノーファー96ロベルト・エンケの控えとして加入した。しかし膝の怪我に苦しみ、僅か1試合出場に止まった。

2008年5月、10年以上ぶりにオーストラリアに復帰し、Aリーグパース・グローリーFCに加入した。タンドゥ・ベラフィジェイソン・ペトコヴィッチとのポジション争いになったが、自身のパフォーマンスの悪さでポジションを失った。翌年5月に選手を引退し、クラブは控えゴールキーパーとしてアレクス・ヴルテスキを後任として雇った[1]

代表歴

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1995年11月10日に行われたOFCネイションズカップ1996ニュージーランド代表戦で代表初出場。翌年2月10日に行われた日本代表との親善試合が代表2試合目にして最後の出場となった。

その後も代表に招集はされ続け、アトランタオリンピックFIFAコンフェデレーションズカップ2001にも参加したが、マーク・シュワルツァージェリコ・カラッツマーク・ボスニッチといった面々の壁は高く出場する事は出来なかった。

指導歴

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選手引退と同時にパース・グローリーのゴールキーパーコーチに就任した。

2012年に古巣のメルボルン・ナイツのゴールキーパーコーチに就任した後、アデレード・ユナイテッドFCウェスタン・ユナイテッドFCのゴールキーパーコーチを歴任した。

参考文献

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  1. ^ Hope, Shayne (25 May 2009). “Vrteski back in Glory fold”. thewest.com.au. 11 August 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。25 May 2009閲覧。

外部リンク

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