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フラウィウス・バウト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フラウィウス・バウトラテン語: Flavius Bauto、? - 388年以前)は、4世紀フランク人で、ローマ帝国の政治家および軍人。385年執政官

生涯

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フラウィウス・バウトはライン川の東岸で育ったとされる4世紀フランク人で、ローマ帝国の政治家および軍人として活躍した。

ウァレンティニアヌス1世の没後は、同じくフランク人であったメロバウデスリコメルらとともに幼少な2人の皇帝グラティアヌスウァレンティニアヌス2世の後見人として政務を代行した。

377年頃から、蛮族との争いに苦しむ東ローマ皇帝ウァレンスを支援するため皇帝グラティアヌスによって東方へと派遣され、東西の連合軍を指揮して幾度となくゴート族の集団と戦った[1]378年にはラエティアにおいてもアラマンニ人を相手に勝利を収めている。ウァレンスが378年にハドリアノポリスの戦いで戦死した後もバウトはウァレンスの後任として西の宮廷より派遣されてきたテオドシウス1世を支えて各地を転戦し、382年頃まで東方の混乱の収拾に努めた。380年、バウトは帝国西半マギステル・ミリトゥムに任命された[2]

383年ブリタンニアローマ軍団マグヌス・マクシムスローマ皇帝として宣言してグラティアヌスを殺害すると、バウトはテオドシウスの軍団を率いてマキシムスと対陣した。しかしマクシムスと旧知の間柄であったテオドシウス1世にはマクシムスと争う意思がなかったようで[3]、テオドシウスはミラノ司教アンブロシウスを調停役としてマクシムスと和議を結んだ。さらに翌384年にはテオドシウス自らイタリアへと赴き、マクシムスを共同皇帝と認めるようウァレンティニアヌス2世を説得した[3]。テオドシウス1世がマキシムスと講和した後は、バウトは西の宮廷に戻ってウァレンティニアヌス2世の後見人として西方の防衛に専念した。385年執政官に任命されたが、まもなく(遅くとも388年までには)死亡した[2]

バウトは古代ローマの伝統宗教の熱心な信者であった。ミラノ司教アンブロシウスとは友人であったが、アンブロシウスが382年にグラティアヌスを威迫して元老院から古代ローマの祭壇を撤去させたときにはバウトはアンブロシウスに反対している。また、384年には首都長官クィントゥス・アウレリウス・シュンマクス英語版らとともに、祭壇を元老院に帰すようウァレンティニアヌス2世に働きかけている。

一族

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バウトの妻は、リコメルの姉妹だったとされる。バウトの娘アエリア・エウドクシア英語版は、395年にテオドシウス1世の長男アルカディウスと結婚し、401年に後の東ローマ皇帝テオドシウス2世を生んだ[4]アンティオキアのヨハネス英語版によれば、アルボガストもバウトの子であったとされるが、現代の歴史家たちは疑わしいとしている。

脚注

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  1. ^ 南川2013、p.166。
  2. ^ a b 南川2013、p.175。
  3. ^ a b 尚樹1999、pp.75-76。
  4. ^ 佐藤1995、p.134。

参考文献

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  • 佐藤彰一 著、樺山紘一 編『世界歴史大系 フランス史 1』山川出版社、1995年。ISBN 4634460904 
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年。ISBN 4486014316 
  • 南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波書店、2013年。ISBN 9784004314264 
  • 松原國師『西洋古典学事典』京都大学学術出版会、2010年。ISBN 9784876989256 

関連項目

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