フョードル・ユーリエヴィチ (リャザン公国)
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フョードル・ユーリエヴィチ(ロシア語: Фёдор Юрьевич、? - 1237年)は、『バトゥのリャザン襲撃の物語』に名がみられる、半伝説的な人物である。ブロックハウス・エフロン百科事典ではフョードルをリャザン公と解説している[1]。『バトゥのリャザン襲撃の物語』によればリャザン公ユーリーの子である。
『バトゥのリャザン襲撃の物語』によると、1237年、モンゴルのルーシ侵攻軍はヴォロネジ川付近に到達すると、リャザン公国に貢税を迫った[2]。使者としてモンゴル陣営へ来たフョードルに対し、モンゴル軍総司令官バトゥは、フョードルの妻・エヴプラクシヤを差し出すよう要求した。フョードルはこれを、キリスト教徒に、侵攻無き者に妻を差し出す習慣はないと述べて拒否したため、バトゥの怒りに触れて処刑された[3]。
また、妻エヴプラクシヤとの間に幼い息子イヴァンがいたが、フョードルの死を知り、両名とも自害した[1]。フョードル一家はロシア正教会において、致命者・致命女とみなされている[4]。
出典
[編集]- ^ a b Феодор Георгиевич, князь рязанский // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона
- ^ 中村.1970.p224
- ^ 中村.1970.p225
- ^ Синодик всех русских святых // Православие.Ru
参考文献
[編集]- 中村喜和訳「バツのリャザン襲撃の物語」 // 『ロシア中世物語集』 筑摩書房、1985年。