フス・メリク
フス・メリク(モンゴル語: Qus melik,中国語: 曷思麥里,? - 1255年)とは、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えた将軍。『元史』などの漢文史料では曷思麦里と記される。
概要
[編集]フス・メリクはカラ・キタイ(西遼)首都フスオルドの出身で、当初はグル・カン(カラ・キタイの君主)の近侍を務めていたが、後にカサンの長官に任じられた。13世紀初頭、チンギス・カンの創建したモンゴル帝国がモンゴル高原を統一すると、これに敗れたナイマン部のクチュルクがカラ・キタイに亡命し君主の地位を簒奪してしまった。
そこでチンギス・カンがクチュルク討伐のためジェベを派遣する(モンゴルの西遼征服)と、フス・メリクはカサン一帯の酋長を率いてモンゴル帝国に降った。報告を聞いたチンギス・カンはフス・メリクをジェベ軍の先鋒に任じ、フス・メリクはクチュルク討伐に活躍した。カラ・キタイの滅亡後、ジェベはフス・メリクにクチュルクの首を持たせて未だ降伏していない諸城を回らせ、クチュルクの首級の見せしめとフス・メリクの説得によってカシュガル、ヤルカンドといった都市がモンゴル帝国に降伏した[1]。
西遼征服後のホラズム征服においてもフス・メリクは引き続き従軍し、ニーシャープール攻略に貢献した。ジェベ、スブタイらがアラーウッディーン・ムハンマド追討のため派遣されるとフス・メリクはこれに従軍し、カフカース・南ロシア各地の戦闘で功績を挙げた。西方遠征から帰還したフス・メリクは続いて西夏遠征に従軍し、チンギス・カンに各地の財宝を献上した。この際、チンギス・カンは群臣に「かつてジェベは常にフス・メリクの功績を称えていたものだが、フス・メリクは体躯は小さくともその名声は大きい」と語ったという。この後フス・メリクはビチクチに任じられた[2]。
チンギス・カンの死後、オゴデイが即位すると、金朝への親征に従軍した。この時の功績により、懐州・孟州のダルガチに任じられた。その後、フス・メリクは1255年に亡くなった。
子の密里吉は父のダルガチ職を継いだが、南宋との戦いで戦死した[3]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻120列伝7曷思麦里伝「曷思麦里、西域谷則斡児朶人。初為西遼闊児罕近侍、後為谷則斡児朶所屬可散八思哈長官。太祖西征、曷思麦里率可散等城酋長迎降、大将哲伯以聞。帝命曷思麦里従哲伯為先鋒、攻乃蛮、克之、斬其主曲出律。哲伯令曷思麦里持曲出律首往徇其地、若可失哈児、押児牽・斡端諸城、皆望風降附」
- ^ 『元史』巻120列伝7曷思麦里伝「又従征你沙不児城、諭下之。帝親征至薛迷思干、与其主札剌丁合戦於月欒掲赤之地、敗之。追襲札剌丁等於阿剌黒城、戦於禿馬温山、又敗之。追至憨顔城西寨、又敗之。札剌丁逃入於海。曷思麦里收其珍宝以還。取玉児谷・徳痕兩城。継而憨顔城亦下。帝遣使趣哲伯疾馳以討欽察。命曷思麦里招諭曲児忒・失児灣沙等城、悉降。至谷児只部及阿速部、以兵拒敵、皆戦敗而降。又招降黒林城、進撃斡羅思於鉄児山、克之、獲其国主密只思臘、哲伯命曷思麦里献諸朮赤太子、誅之。尋征康里、至孛子八里城、与其主霍脱思罕戦、又敗其軍、進至欽察亦平之。軍還、哲伯卒。会帝親征河西、曷思麦里持所獲珍宝及七宝傘迎見於阿剌思不剌思、帝顧群臣曰『哲伯常称曷思麦里之功、其躯幹雖小、而声聞甚大』。就以所進金宝、命随其力所勝、悉賜之。仍命与薛徹兀児為必闍赤。未幾、曷思麦里奏、往者嘗招安到士卒留亦八里城、宜令扈従征河西、許之、命常居左右。至也吉里海牙、又討平失的児威」
- ^ 『元史』巻120列伝7曷思麦里伝「従太祖征汴、至懐孟、令領奥魯事。帝由白坡渡黄河、会睿宗兵攻金將合達、敗之、回駐金蓮川。壬辰、授懐孟州達魯花赤、佩金符。癸巳、金将強元帥囲懐州、曷思麦里率其衆及昔里吉思・鎖剌海等力戦、金兵退。又遣蒲察寒奴・乞失烈答魯招諭金総帥范真率其麾下軍民萬餘人来降。己亥六月、帝以曷思麦里従軍西域、宣力居多、命其長子捏只必襲為懐孟達魯花赤、次子密里吉襲為必闍赤、令曷思麦里為札魯火赤、帰西域。大帥察罕・行省帖木児奏留之、帝允其請。庚子、進懐孟河南二十八処都達魯花赤、所隸州郡不従命者、制令籍其家。乙卯五月卒。子密里吉復為懐孟達魯花赤。中統三年、従攻淮西、与宋戦死」