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フェルディナン2世 (オマール伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェルディナン2世
Ferdinand II
オマール伯
在位 1252年 - 1260年

出生 1238年
死去 1264/9年以前
配偶者 ロール・ド・モンフォール
子女 ジャン1世
家名 ボルゴーニャ家
父親 カスティーリャ王フェルナンド3世
母親 ジャンヌ・ド・ダンマルタン
宗教 キリスト教カトリック教会
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フェルナンド・デ・カスティーリャスペイン語:Fernando de Castilla, 1238年 - 1264/9年以前)またはオマール伯フェルディナン2世フランス語:Ferdinand II, comte d'Aumale)は、カスティーリャ王フェルナンド3世とその2番目の妃でポンチュー女伯のジャンヌ・ド・ダンマルタンの息子。

生涯

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フェルナンドは1238年に生まれた[1]。1252年5月30日にセビリアで父フェルナンド3世が亡くなった後、母ジャンヌ・ド・ダンマルタンとその長男であるフェルナンドはフランスに向けて出発したが、ジャンヌはフランスから戻ることはなかった。フランスにおいて、フェルナンドはオマール伯領とモンゴメリー男爵領、ノワイエル・シュル・メール男爵領を相続した。

フェルナンドの没年月日は不明であるが、没年を1264年以前とされる一方で[1]、1269年7月25日にトレドで弟のルイスが「ポンチュー伯領の継承者」としてカラトラバ騎士団に寄付を行っているため、1269年7月25日以前であったともされている[2]

結婚と子女

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アモーリー6世・ド・モンフォールの娘ロールと結婚し、以下の子女をもうけた。

注釈

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  1. ^ オマール伯であったとされている[4]

脚注

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  1. ^ a b Evans & Brook 1989, p. 389.
  2. ^ Ibáñez de Segovia 1777, p. 513.
  3. ^ Parsons 1977, p. 77.
  4. ^ a b Verbruggen 2002, p. 57.

参考文献

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  • Evans, Charles F. H.; Brook, Lindsay Leonard (1989). “Occasional publication (Association for the Promotion of Scholarship in Genealogy), No. 2”. In Association for the Promotion of Scholarship in Genealogy; Lindsay L. Brook. Studies in genealogy and family history in tribute to Charles Evans on the occasion of his eightieth birthday (1st ed.). Salt Lake City. OCLC 22235011 
  • González, Julio (2009). Editorial Maxtor. ed (スペイン語). Las Conquistas de Fernando III en Andalucía (1ª ed.). Valladolid. ISBN 9788497612777 
  • Ibáñez de Segovia, Gaspar (1777). Joachin Ibarra. ed (スペイン語). Memorias históricas del Rei D. Alonso el Sabio i observaciones a su chronica. Madrid. OCLC 458042314. https://books.google.com/books?id=NCkE93FlcSQC 
  • Parsons, John Carmi (1977). The Court and Household of Eleanor of Castile in 1290. Pontifical Institute of Mediaeval Studies 
  • Verbruggen, J. F. (2002). DeVries, Kelly. ed. The Battle of the Golden Spurs (Courtrai, 11 July 1302). The Boydell Press 
先代
フェルディナン1世
オマール伯
1252年 - 1260年
ジャンヌと共治)
次代
ジャン1世