コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

フェルディナント・カール・フォン・エスターライヒ=エステ (1821-1849)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェルディナント・カール
Ferdinand Karl
オーストリア=エステ家

称号 オーストリア=エステ大公
出生 1821年7月20日
モデナ公国 モデナ
死去 (1849-12-15) 1849年12月15日(28歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国 ブリュン
埋葬 モデナ公国 モデナ、サン・ヴィンチェンツォ教会
配偶者 エリーザベト・フランツィスカ
子女 マリア・テレジア
父親 フランチェスコ4世
母親 マリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
宗教 キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

フェルディナント・カール・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ=エステドイツ語: Ferdinand Karl Victor von Österreich-Este, フェルディナンド・カルロ・ダスブルゴ=エステイタリア語: Ferdinando Carlo Vittorio d'Asburgo-Este, 1821年7月20日 - 1849年12月15日)は、イタリアのモデナ公国の支配者オーストリア=エステ家の公子。

生涯

[編集]

モデナ公フランチェスコ4世とその妻でサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世の娘であるマリーア・ベアトリーチェの間の次男として生まれた。

1847年10月4日にシェーンブルン宮殿において、同族のハンガリー宮中伯ヨーゼフ・アントン大公の娘で又従妹にあたるエリーザベト・フランツィスカと結婚した。

1848年革命の時期には、オーストリア軍人としてイタリアとハンガリーの戦場で戦い、最終的には陸軍中将にまで昇進した。さらに、オーストリア軍第26歩兵連隊の連隊長でもあった。また、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位をプロイセン王国政府に知らせるため、ベルリン宮廷に特使として派遣されている。

ブルノに滞在していたときに気分が悪くなり、チフスに感染していると診断されたが、姉マリア・テレジアの看病も空しく診断からわずか5日で急死した。28歳だった。遺骸はモデナのサン・ヴィンチェンツォ教会に安置された。

フェルディナント・カールの死後、未亡人エリーザベトは同族のカール・フェルディナント大公と再婚した。

子女

[編集]

エリーザベト・フランツィスカとの間に娘を1人もうけた。

系譜

[編集]
フェルディナント・カール 父:
フランチェスコ4世 (モデナ公) [1]
祖父:
フェルディナント
曽祖父:
フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)
曽祖母:
マリア・テレジア
祖母:
マリーア・ベアトリーチェ
曽祖父:
エルコレ3世・デステ
曽祖母:
マリーア・テレーザ
母:
マリーア・ベアトリーチェ
祖父:
ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世
曽祖父:
ヴィットーリオ・アメデーオ3世
曽祖母:
マリーア・アントニア
(スペイン王女)
祖母:
マリーア・テレーザ [2]
曽祖父:
フェルディナント
曽祖母:
マリーア・ベアトリーチェ
[1]は[2]の弟で、2人の妹にオーストリア皇帝フランツ1世の3番目の妃になったマリア・ルドヴィカがいる。

参考文献

[編集]
  • Österreichischer Zuschauer. Ausgabe 1, Comptoir des Österreichischen Zuschauer, 1850, S. 42, Digitalisat