コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

フェラーリ・333SP

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェラーリ 333SPから転送)
フェラーリ・333SP
Lista Racing Team仕様
概要
製造国 イタリアの旗 イタリア
販売期間 1994年 - 2000年
デザイン ジャンパオロ・ダラーラ
ボディ
ボディタイプ 2座席スパイダー
駆動方式 MR
パワートレイン
エンジン F130E型 3.997 L 65度 V型12気筒 DOHC
最高出力 650 ps
変速機 5速 シーケンシャルMT
車両寸法
ホイールベース 2,740 mm
全長 4,569 mm
全幅 2,000 mm
全高 1,025 mm
車両重量 860 kg
テンプレートを表示

フェラーリ・333SP (Ferrari 333 SP) は、1994年IMSAWSC(ワールドスポーツカー)参戦用にフェラーリが製作したスポーツカーである。名称の「333」は過去フェラーリが12気筒エンジン一択であった時代の命名規則に従った1気筒当たりの排気量による。フェラーリがスポーツカーレースに参加するのは、1973年312PB以来、実に21年ぶりのことである。

概要

[編集]

333SPの開発計画は、ステアリングメーカー「MOMO」の社長であり、現役レーサーでもあるジャンピエロ・モレッティが、フェラーリ副社長のピエロ・ラルディ・フェラーリに提案したことから始まる[1]。アメリカのIMSAで、1994年より生産エンジンをベースにしたWSCクラスが創設される機会にあわせて開発された。

計画担当はF1部門(スクーデリア・フェラーリ)ではなく、子会社のフェラーリ・エンジニアリング[1]ジャンパオロ・ダラーラトニー・サウスゲートの協力を得てデザインを行い[1]ダラーラが製作を担当した。後期型はパドヴァのチューナーミケロットが担当した。

エンジンはロードカーF50用に開発中だった自然吸気の4.7リットル65度V型12気筒DOHC5バルブエンジンをベースにしてストロークを短縮し[1]、WSCの上限排気量である4.0リットルまで縮小されたF130E型である。最高出力は650メトリック馬力 (11,000回転毎分)、最大トルクは45キログラムメートル (9000回転毎分)[2]である。このエンジンを遡ると、1992年のF1マシンであるF92Aに搭載されていた040型 (3.5リットル) に繋がる[3]

センターモノコックはカーボンコンポジットとアルミハニカムで成型し、シーケンシャルタイプの5速MTが組み合わされた[2]

サスペンションは前後ともF1的なプッシュロッドを用いていた[4]

WSCのレギュレーションでは「エンジンは市販車の4リットル以下の物」というものだったが、333SP完成時にはまだF50の発売前でしかもF50のエンジンは4.7リットルだったため、オーガナイザーのIMSAは協議の末、特例として参戦を認めた。オーガナイザーとしてもフェラーリの参戦がシリーズの盛り上げに必要と考えたためである[5]

333SPは当初こそオーガナイザーに歓迎されたものの、しだいにその強さが懸念されるようになり、最初の仕様で11,500回転毎分だったエンジンのレブリミットが11,000回転毎分に制限され、一気筒あたり5バルブの仕様も禁止されてしまった。さらに吸気制限のためのエア・リストリクターまで義務づけられてしまった[5]

一台あたりの価格は約100万ドルだった[4]

戦績

[編集]
コクピットのクローズアップ写真

333SPのレース活動はフェラーリ自身のワークス参戦ではなく、プライベーターへの供給・サポートという方法で行われた。

333SPは1994年IMSA第3戦ロードアトランタでデビューし、ワンツーフィニッシュを飾る。このシーズンは計5勝したが、途中参戦だったためシリーズ2位となった。

1995年は、クラシック耐久のデイトナ24時間セブリング12時間にも参戦。デイトナはトラブルでリタイヤに終わるも、セブリングではフェラーリにとって23年ぶりの優勝を飾る。このシーズンは5勝して、ドライバーズ(フェルミン・ヴァレス)、マニュファクチャラーズの両チャンピオンを獲得した。

この年はル・マンにも参戦。フェラーリにとってプロトタイプでのル・マン参戦は1973年以来22年ぶりのことであったが、結果は3周でエンジントラブルによってリタイヤした。ル・マンには翌1996年も参戦し、ファステストラップをマーク。1997年は6位でフィニッシュした。

セブリング12時間では1997年・1998年にも優勝。デイトナ24時間は1996年・1997年と2年連続2位で苦杯を舐めるが、1998年には27年ぶりの優勝を成し遂げた。モレッティは15回目のデイトナ挑戦で頂点をつかみ[6]、このレースを最後に引退した。

1997年には欧州の国際スポーツレーシング・シリーズ (ISRS) に参戦し、スポーツレーシング・ワールド・カップ、FIA スポーツカー選手権とシリーズが変遷する中で、2001年までに数々の勝利とタイトルを積み重ねた。

333SPは1980年代のポルシェ・962同様、長い現役生活の中で多くのプライベーターに重宝されるマシンとなった。

現在

[編集]

なお現在、中古として払い下げられた333SPの多くは、フェラーリの「コルセ・クリエンティ」部門が主催する「F1クリエンティ」プログラムに組み込まれ、メンテナンスなどのサポートを受けているほか、世界各国のサーキットでフェラーリが開催している「フェラーリ・レーシング・デイズ」や「フィナーリ・モンディアーリ」などのイベントでF1マシンとともに走行している。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d 磯部道毅 『Ferrari V12 -Racing Sports,GT&F1』 三樹書房、1999、143 - 144 頁。
  2. ^ a b "フェラーリF333 SP". Ferrari.com. 2013年2月27日閲覧。
  3. ^ "期待を込めて". Ferrari.com. 2013年2月27日閲覧。
  4. ^ a b 二玄社刊『CG選集 フェラーリ2』 372-377頁。
  5. ^ a b アシェット『公式フェラーリF1コレクション Vol.79』
  6. ^ "『モモ』創業者ジャンピエロ・モレッティ亡くなる". オートスポーツ.(2012年1月17日)2013年2月27日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]