フィリップ1世 (ポメラニア公)
フィリップ1世 Philipp I. | |
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ポメラニア公 | |
フィリップ1世(ルーカス・クラナッハ (子) 画) | |
在位 | 1531年 - 1560年 |
出生 |
1515年7月14日/15日 神聖ローマ帝国 ポメラニア公領、シュチェチン[1] |
死去 |
1560年2月14日(44歳没) 神聖ローマ帝国 ポメラニア公領、ヴォルガスト |
埋葬 |
1560年2月21日 神聖ローマ帝国 ポメラニア公領、ヴォルガスト、聖ペテロ教区教会 |
配偶者 | マリア・フォン・ザクセン |
子女 | 本文参照 |
家名 | グリフ家 |
父親 | ポメラニア公ゲオルク1世 |
母親 | アマーリエ・フォン・デア・プファルツ |
フィリップ1世(Philipp I., 1515年7月14/15日[2] - 1560年2月14日)は、ポメラニア公(在位:1531年 - 1560年)。ポメラニア公ゲオルク1世とアマーリエ・フォン・デア・プファルツの息子。
生涯
[編集]フィリップ1世はポメラニア公ゲオルク1世とアマーリエ・フォン・デア・プファルツの第2子、次男(成人に達した長男)として生まれた。母の父プファルツ選帝侯フィリップにちなんで名付けられ、ハイデルベルクでの留学中に祖父フィリップのもてなしを受けた。1531年に父が亡くなった後、叔父のバルニム9世敬虔公とともにポメラニア公領の共同統治者となった[3]。
1532年10月21日に行われた公領の分割の結果、フィリップ1世はヴォルガスト公となり、オーデル川西岸とリューゲン島の領地を統治した。さらに、1541年にはティヴァ川とオーデル川の間の地、グリフィノとスボブニツァの領地を自らの領土に併合した[4]。
1534年12月13日、トシェビャトゥフで開催された議会中に、フィリップ1世とバルニム9世は西ポメラニアにルター派を国教として導入した[3][5][6]。宗教の変更は、議会の大多数の反対にもかかわらず、特権を利用したポメラニア公たちの決定の結果として行われた[7]。西ポメラニアの宗教改革では、とりわけ、教会財産の世俗化とポメラニア福音教会の設立が計画された[8]。
1535年のポメラニアとザクセンの同盟をきっかけに、フィリップ1世は翌年、ザクセン選帝侯ヨハンの娘マリアと結婚した。1536年2月26日に指輪が交換され民事婚が行われ、翌日、つまり2月26日に結婚の儀式が行われた。2月27日にトルガウにおいてマルティン・ルターにより結婚式のミサが厳粛に執り行われた[9]。
1537年にシュマルカルデン同盟に加わり、1537年2月27日からカトリックの皇帝カール5世に対抗するプロテスタント諸侯が団結することとなった。フィリップ1世は後にバルニム9世とともに反逆罪で皇帝に告発されたが、ポーランド王ジグムント1世のとりなしのおかげで許された[3]。
フィリップ1世はヴォルガスト公領を統治している間に、公領の管理を再編し、そのおかげで領内の歳入が大幅に増加し、領地の防衛を強化させることができた(ウエッカーミュンデの城を再建した[7])。また、フィリップ1世は科学の発展にも関心を持っていた。ヴォルガストの城に図書館をつくり、シュチェチンのギムナジウムの設立にも貢献した[3]。
フィリップ1世は1560年2月14日にヴォルガストにおいて45歳で死去し、2月21日に同地の聖ペテロ教区教会に埋葬された[4][7]。公位は2人の息子、ヨハン・フリードリヒとボギスラフ13世が継承した。息子らは成年に達するまで、バルニム9世の後見下に置かれた[10]。
結婚と子女
[編集]フィリップ1世はザクセン選帝侯ヨハンとマルガレーテ・フォン・アンハルト=ケーテンの娘マリアと結婚した[1]。2人の間には多くの子女が生まれた。
- ゲオルク(1540年2月13日 - 1544年11月16日)
- ヨハン・フリードリヒ(1542年 - 1600年) - ポメラニア=ヴォルガスト公
- ボギスラフ13世(1544年 - 1606年) - ポメラニア=バルト公
- エルンスト・ルートヴィヒ(1545年 - 1592年) - ポメラニア=ヴォルガスト公
- アマーリエ(1547年1月28日 - 1580年9月16日)
- バルニム10世(1549年 - 1603年) - ポメラニア=リューゲンヴァルデ公
- エーリヒ(1551年8月22日 - 12月12/13日)
- マルガレーテ(1553年3月19日 - 1581年9月5日) - 1574年にザクセン=ラウエンブルク公フランツ2世と結婚
- アンナ(1554年9月18日 - 1626年9月10日) - 1588年にメクレンブルク=ギュストロー公ウルリヒ3世と結婚
- カジミール6世(1557年 - 1605年) - ポメラニア=リューゲンヴァルデ公、ビトゥフ公、シュチェチン公[11]、カミエン監督
同時代の資料ではフィリップ2世とゾフィーの息子もフィリップ1世とマリア・フォン・ザクセンのものであるとされているが、これについては異論が唱えられている[12]。ゲオルク1世とホーエンシュタイン・ナ・フィエラデン伯爵夫人アンナ・カタリーナの息子プトブス領主ルートヴィヒ(1549年 - 1594年8月10日)は、フィリップ1世の隠し子とされているが、フィリップ1世とアンナ・カタリーナの間でこのような関係が築かれた経緯は不明である[13]。
脚注
[編集]- ^ a b Rymar 2005, pp. 438–440.
- ^ 誕生日は7月14日から15日にかけての夜であったが、正確な時間は不明である。いくつかの資料では真夜中の2時とされている(Rymar (1995), pp. 160-165 および Rymar (2005), pp. 438-440 を参照)。
- ^ a b c d Kozłowski 1985, p. 111.
- ^ a b Rymar 2005, p. 438.
- ^ Gottfried von Bülow (1888). "Philipp I., Herzog von Pommern-Wolgast". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 26. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 31–34.
- ^ Wesołowska 2001, p. 81.
- ^ a b c Madsen U.. “Philipp I. Herzog von Pommern-Wolgast” (ドイツ語). 2012年3月30日閲覧。
- ^ この新しい宗教の導入を最初に提案したのは、ポメラニア公ゲオルク1世であった(Szymański (2006), pp. 239-240)。
- ^ Rymar 2005, pp. 438–439.
- ^ Szymański 2006, p. 200.
- ^ Rymar 2005, pp. 460–464.
- ^ Rymar 2005, pp. 464–465.
- ^ Rymar 2005, pp. 459–460.
参考文献
[編集]- Kozłowski, Kazimierz; Podralski, Jerzy (1985). Gryfici. Książęta Pomorza Zachodniego. Szczecin: Krajowa Agencja Wydawnicza. ISBN 83-03-00530-8. OCLC 189424372
- Rymar, E. (1995). Rodowód książąt pomorskich. T. II. Szczecin. ISBN 83-902780-0-6
- Rymar, E. (2005). Rodowód książąt pomorskich. Szczecin: Książnica Pomorska im. Stanisława Staszica. ISBN 83-87879-50-9. OCLC 69296056
- Szymański, J.W. (2006). Książęcy ród Gryfitów. Goleniów: Kielce. ISBN 83-7273-224-8
- Wesołowska, S. (2001). “Szkic do dziejów szkolnictwa w Trzebiatowie od XIV wieku do czasów współczesnych”. Trzebiatów – historia i kultura II. Łysiak W. (ed.). Poznań. ISBN 83-87437-08-5.
- Gottfried von Bülow (1888). "Philipp I., Herzog von Pommern-Wolgast". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 26. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 31–34.
- Madsen U.. “Philipp I. Herzog von Pommern-Wolgast” (ドイツ語). 2012年3月30日閲覧。
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