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ファウストゥス・コルネリウス・スッラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ファウストゥス・コルネリウス・スッラ
Faustus Cornelius L. f. L. n. Sulla
ミトリダテス6世の王冠を受け取るファウストゥス(中央左)
渾名 フェリクス[1]
死没 紀元前46年
死没地 ヒスパニア
出身階級 パトリキ
氏族 コルネリウス氏族
官職 トリブヌス・ミリトゥム(紀元前63年)
クァエストル(紀元前54年)
クリア・ホスティリア建設監督(紀元前52年)
プロクァエストル・プロ・プラエトレ(紀元前49-47年)
プロマギストラトゥス(アフリカ担当)(紀元前46年)
アウグル(紀元前57-46年)
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ファウストゥス・コルネリウス・スッララテン語: Faustus Cornelius Sulla、生年不詳 - 紀元前46年)は、共和政ローマ後期の政務官ルキウス・コルネリウス・スッラの子で、元老院議事堂を建て直したことで知られる。

略歴

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プルタルコスによれば、父は独裁官も務めたスッラ、母はマルクス・アエミリウス・スカウルスの元妻であるカエキリア・メテッラで、双子の女きょうだいファウスタがいる[2]

紀元前63年頃に、トリブヌス・ミリトゥムを務め[3]、その前後に貨幣を鋳造している[1]紀元前57年にはアウグルであったことが分かっており、恐らく父の跡を継いだものと思われる[4]

紀元前54年クァエストルを務めたと考えられている[5]紀元前52年、父スッラの拡張したクリア・ホスティリア(元老院議事堂)が、プブリウス・クロディウス・プルケルの遺体と共に焼け落ちたため、クリア・コルネリアを建設した[6]

紀元前49年にプロクァエストル・プロ・プラエトレとなり、マウレタニアに派遣される案が当時の護民官ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前38年の補充執政官)に拒否されたため、エピルスに向かいグナエウス・ポンペイウスと合流した[5]マケドニアグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスを抑えていたが、パルサルスの戦いアフリカに渡り[7]紀元前46年ルキウス・アフラニウスと共にヒスパニアに逃げるところを捕らえられ、処刑された[8][9]

関連項目

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出典

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  1. ^ a b MRR2, p. 437.
  2. ^ プルタルコス『対比列伝』スッラ、34
  3. ^ MRR2, p. 557.
  4. ^ MRR2, p. 207.
  5. ^ a b MRR2, p. 223.
  6. ^ Taylor&Scott, p. 537.
  7. ^ MRR2, p. 276.
  8. ^ MRR2, p. 297.
  9. ^ MRR2, p. 300.

参考文献

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  • T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association 
  • Lily Ross Taylor; Russell T. Scott (1969). “Seating Space in the Roman Senate and the Senatores Pedarii”. Transactions and Proceedings of the American Philological Association (The Johns Hopkins University Press) 100: 529-582. JSTOR 2935928.