ファウストゥス・コルネリウス・スッラ
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ファウストゥス・コルネリウス・スッラ Faustus Cornelius L. f. L. n. Sulla | |
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ミトリダテス6世の王冠を受け取るファウストゥス(中央左) | |
渾名 | フェリクス[1] |
死没 | 紀元前46年 |
死没地 | ヒスパニア |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | コルネリウス氏族 |
官職 |
トリブヌス・ミリトゥム(紀元前63年) クァエストル(紀元前54年) クリア・ホスティリア建設監督(紀元前52年) プロクァエストル・プロ・プラエトレ(紀元前49-47年) プロマギストラトゥス(アフリカ担当)(紀元前46年) アウグル(紀元前57-46年) |
ファウストゥス・コルネリウス・スッラ(ラテン語: Faustus Cornelius Sulla、生年不詳 - 紀元前46年)は、共和政ローマ後期の政務官。ルキウス・コルネリウス・スッラの子で、元老院議事堂を建て直したことで知られる。
略歴
[編集]プルタルコスによれば、父は独裁官も務めたスッラ、母はマルクス・アエミリウス・スカウルスの元妻であるカエキリア・メテッラで、双子の女きょうだいファウスタがいる[2]。
紀元前63年頃に、トリブヌス・ミリトゥムを務め[3]、その前後に貨幣を鋳造している[1]。紀元前57年にはアウグルであったことが分かっており、恐らく父の跡を継いだものと思われる[4]。
紀元前54年にクァエストルを務めたと考えられている[5]。紀元前52年、父スッラの拡張したクリア・ホスティリア(元老院議事堂)が、プブリウス・クロディウス・プルケルの遺体と共に焼け落ちたため、クリア・コルネリアを建設した[6]
紀元前49年にプロクァエストル・プロ・プラエトレとなり、マウレタニアに派遣される案が当時の護民官、ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前38年の補充執政官)に拒否されたため、エピルスに向かいグナエウス・ポンペイウスと合流した[5]。マケドニアでグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスを抑えていたが、パルサルスの戦い後アフリカに渡り[7]、紀元前46年、ルキウス・アフラニウスと共にヒスパニアに逃げるところを捕らえられ、処刑された[8][9]。
関連項目
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association
- Lily Ross Taylor; Russell T. Scott (1969). “Seating Space in the Roman Senate and the Senatores Pedarii”. Transactions and Proceedings of the American Philological Association (The Johns Hopkins University Press) 100: 529-582. JSTOR 2935928.