ピョートル・ヴェリーキー (戦艦)
クレーイセル ピョートル・ヴェリーキー 第1号繋留廃艦 BSh-3 | ||
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ピョートル・ヴェリーキー、初期の容貌 | ||
艦歴 | ||
クレーイセル Крейсер | ||
起工 | 1869年5月20日 ガレー島造船所 | |
ピョートル・ヴェリーキー Петр Великий | ||
改称 | 1972年5月30日 | |
進水 | 1872年8月15日 | |
竣工 | 1877年 | |
所属 | ロシア帝国海軍バルト艦隊 | |
転属 | 1917年3月3日 | |
所属 | 臨時政府バルト艦隊 ロシア共和国海軍バルト艦隊 | |
転属 | 1917年10月25日 | |
所属 | ロシア・ソヴィエト共和国バルト艦隊 赤色海軍バルト艦隊[1] | |
転属 | 1921年4月21日 | |
所属 | 赤色海軍バルト海軍[1] | |
第1号繋留廃艦 Блокшив № 1 | ||
改称 | 1923年12月4日 | |
所属 | 赤色海軍バルト海軍[1] 赤色海軍バルト海軍[2] | |
第4号繋留廃艦 Блокшив № 4 | ||
改称 | 1932年1月1日 | |
所属 | 赤色海軍バルト海軍[2] | |
転属 | 1935年1月11日 | |
所属 | ソ連海軍バルト艦隊 | |
転属 | 1946年2月15日 | |
所属 | ソ連海軍クロンシュタット海軍要塞 | |
BSh-3 БШ-3 | ||
改称 | 1949年5月16日 | |
転属 | 1955年12月24日 | |
所属 | ソ連海軍レニングラード海軍基地 | |
退役 | 1959年4月18日 | |
要目(竣工時) | ||
艦種 | モニター艦、装甲艦、艦隊装甲艦 | |
形態 | モニター艦、前弩級戦艦 | |
艦級 | クレーイセル級 | |
排水量 | 10105 t | |
全長 | 100.6 m | |
全幅 | 19.3 m | |
喫水 | 7.5 m | |
機関 | ベルト製蒸気機関[3] | 2 基 |
出力 | 4452 馬力[4] | |
ボイラー[3] | 6 対 | |
ボイラー室 | 4 部屋 | |
プロペラシャフト | 2 軸 | |
推進用スクリュープロペラ | 2 基 | |
速力 | 12.35 kn[3] | |
航続距離 | 3600 nmi | |
乗員 | 440 名 | |
武装 | 305 mm連装砲塔 | 2 基 |
4 ポンド単装砲 | 4 門 | |
47 mm回転砲身砲 | 6 門 | |
37 mm回転砲身砲 | 4 門 | |
水中魚雷発射管 | 2 門 | |
装甲 | 材質 | 錬鉄 |
装甲帯 | 203 - 356 mm | |
装甲砲座 | 356 mm | |
砲塔 | 356 mm | |
甲板 | 76 mm | |
要目(1908年) | ||
艦種 | 練習船、封鎖艦、潜水母艦 | |
艦級 | ピョートル・ヴェリーキー級 | |
排水量 | 9790 t | |
全長 | 98.1 m | |
全幅 | 19.1 m | |
喫水 | 8.08 m | |
機関 | 3段膨張蒸気機関 | 2 基 |
出力 | 5500 馬力[5] | |
煙管ボイラー | 12 基 | |
ボイラー室 | 4 部屋 | |
プロペラシャフト | 2 軸 | |
推進用スクリュープロペラ | 2 基 | |
速力 | 12.9 kn | |
航続距離 | 1500 nmi | |
武装 | 50口径203 mm単装砲 | 4 基 |
45口径152 mm単装砲 | 4 門 | |
50口径75 mm単装砲 | 20 門 | |
57 mm単装砲 | 4 門 | |
43口径47 mm単装砲 | 8 門 | |
23口径37 mm単装砲 | 2 門 | |
装甲 | 材質 | 錬鉄 |
装甲帯 | 203 - 356 mm | |
装甲砲座 | 356 mm | |
甲板 | 76 mm | |
司令塔 | 102 mm |
ピョートル・ヴェリーキー、ピョートル大帝(ロシア語:Пётр Великий)は、ロシア帝国がバルト艦隊向けに建造した前弩級戦艦である。艦名は、ロシア帝国の初代皇帝ピョートル1世を讃えたもの。ロシア帝国海軍では、モニター艦、装甲艦、艦隊装甲艦、練習船などに分類された。ロシア最初の航洋型装甲艦として有名。
概要
[編集]設計計画は、A・A・ポポーフ海軍少将によって作成された。1871年に進水したイギリス海軍の砲塔装甲艦デヴァステーションによく似た艦容を持っていたが、その武装は異なっていた。すなわち、世界で3 隻しか建造されなかった隠顕型砲塔を搭載した艦のひとつで、後装砲を砲塔内に連装で装備していた。主砲は、当時ロシアで最新鋭の305 mm艦砲であった1867年式12インチ砲が採用された。砲塔艦の一種であったが、乾舷が低く、航洋性は高いものではなかった。しかし、それでも同世代の砲塔艦と比べて優位に立てるものであり、船体も大型で火力・防御力ともに当時としては強力なものであった。防御装甲は錬鉄製で、シタデル、装甲砲座、砲塔部分で最大の356 mm厚を持っていた。
1869年5月20日に、サンクトペテルブルクのガレー島造船所にて起工した。当初の艦名はクレーイセル(Крейсерクリェーイスィエル)であったが、これはスウェーデンから捕獲した軍艦に由来する伝統的なロシア・フリゲートの艦名であった。類別もモニター艦(монитор)であった。
1872年5月30日、ピョートル1世の生誕200周年を記念し、艦名をピョートル・ヴェリーキーと改めた。同年8月15日に進水し、クロンシュタットに曳航されて完成作業が続けられた。1873年12月22日付けで、新たに設置された装甲艦(броненосный корабль)という類別に改められた[6]。1877年に竣工し、バルト艦隊へ配備された。
1880年から1881年にかけて、最初のオーバーホールを受けた。動力機関が満足の行くものではなかったため、このときにグラスゴーのランドルフ・アンド・エルダー社にて機関の換装工事も受けた。1892年2月1日からは艦隊装甲艦(эскадренный броненосец)に類別を変更された[6]。1895年には再び改修工事を受け、新しい速射砲の45口径152 mm単装砲を6 門増設されるなど、装備が近代化された。
1890年代初頭の時点で艦はすっかり旧式化していたが、20世紀に入っても退役せずに砲術訓練のために使用されることになった。そのため、1903年から1908年まで艦はオーバーホールと大規模な近代化改装を受け、まったく別の艦に生まれ変わった。このとき、特徴であった隠顕型砲塔は撤去され、新しい50口径203 mm砲が装備された。新しい主砲は防楯(ぼうじゅん)を用いた通常形式の露砲で、当時の最新艦に採用されつつあった新式の長砲身砲であった。これを、少し前の装甲巡洋艦と同じような方式で、艦首と艦尾の舷側にそれぞれ1 門ずつ、合せて4 門搭載した。砲塔は、経済性を優先したため採用されなかった。船体各部には、装甲板が増設された。1903年9月21日付けでバルト艦隊練習火砲分遣隊に編入され、1906年3月11日付けで類別も練習船(учебное судно)に改められた[7]。工事は日露戦争の影響を受け、大幅に遅延した。ピョートル・ヴェリーキーの改装よりも新しい艦隊装甲艦スヴォーロフ公やスラヴァの建造が優先されたためである。
第一次世界大戦に参加し、砲術手の訓練のために使用された。1917年に発生した二月革命後は、臨時政府の所有となった。この年からは、潜水母艦(плавучая база для подводных лодок)として使用され、バルト艦隊の潜水艦隊を支援した。十月革命後は、赤色海軍に編入された。
1918年2月25日から26日にかえてレーヴェリからヘリシンクフォールスへ移動した。その後、A・M・シチャースヌイ海軍大佐の指揮下に置かれた。ブレスト=リトフスク条約が締結されると、ドイツ帝国による接収を防ぐためのバルト艦隊の氷洋巡航が実施され、1918年4月11日から14日にかけてフィンランド湾を逃れてクロンシュタットへ移動した。同年10月から、クロンシュタットにて長期保管に入れられた。
1921年4月21日付けで、バルト海軍に所属した。同年5月21日には武装解除され、クロンシュタット軍港の水雷封鎖艦(минный блокшив)となった。1923年12月4日付けで、艦名も第1号繋留廃艦(Блокшив № 1)と改められた。ソ連が成立すると、ソ連海軍の所属となった。
1924年9月23日に発生したクロンシュタットの洪水の際に、押し寄せた沖からの波のために沿岸の浅瀬に乗り上げた。1927年10月5日には、潜水作業特務隊(EPRON)のバルト海隊によって離礁させられた。その後、すぐに修復工事を受けて現役に復帰した。
1932年1月1日付けで、艦名を第4号繋留廃艦(Блокшив № 4)に改められた。1935年1月11日には、赤旗勲章受賞バルト艦隊に所属した。冬戦争と大祖国戦争に参加し、機雷敷設任務に使用された。
二度の世界大戦を生き延び、1946年2月15日からはクロンシュタット海軍要塞に所属した。1949年5月16日には艦名をBSh-3(БШ-3)に改められた。1955年12月24日からは、レニングラード海軍基地に所属した。1959年4月18日付けでソ連海軍を退役し、資金資産局へ引き渡され、解体・売却された。
ギャラリー
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近代化改装後の外観。乾舷が大幅に高められた。マストは2 本に減り、煙突は2 本に増えた。舷側に並ぶのは、カネー式45口径152 mm砲。
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同上。舷側の張り出し部に単装砲架で50口径203 mm砲を搭載した。
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同上、艦尾方向からの撮影。乾舷が高められるとともに、艦尾にはカユートが設けられた。
脚注
[編集]関連項目
[編集]- 潜水母艦インペラートル・ピョートル・ヴェリーキー(インペラートル・ピョートル・ヴェリーキー級)
参考文献
[編集]- В. В. Арбузов. Броненосец «Петр Великий» — Санкт-Петербург, 1993 г.
- МОНИТОРЫ ВЫХОДЯТ В МОРЕ — "Моделист-Конструктор" 1991, №10