ヒラリー・ステップ
ヒラリー・ステップ (Hillary Step) は、エベレストの山頂付近の標高8790 mにあった、高さ約12 mの切り立った岩壁[1]。
概要
[編集]この地形は2015年に起きたネパール地震によって変化し、消滅した可能性もある[2]。エベレスト主峰と南峰を結ぶ南東稜の中ほどに存在し、南東稜ルートで登頂を目指す登山者にとって実質的な最後の難所であった[3]。ネパール側のノーマルルートにおける最大の技術的難関としても知られていた[4]。積雪の多いシーズンにはアイスクライミングによって岩壁を迂回できた[5]。ここから転落すると、(登山者から見て)右側ならば3000 m、左側ならば2400 mほど滑落する危険がある[6][7]。登山家のアナトリ・ブクレーエフは彼の著書 The Climb で1996年にヒラリー・ステップの基部からロープで吊るされた登山者の遺体を目撃したことを記述している[8]。ある登山隊はこのステップについて「奮闘を要する (strenuous)」と述べている一方で、風雨から登山者を守る効果もいくらか果たしていた[9]。支援なしでのヒラリー・ステップの登攀はヨセミテ・デシマル・システムでクラス4に分類されるが、標高が8800 mに近いことには留意を要する[10]。
歴史
[編集]ヒラリー・ステップの名は、最初にこの岩壁を登ったエドモンド・ヒラリーに由来する。彼はシェルパのテンジン・ノルゲイとともに1953年イギリスエベレスト遠征隊に参加し、エベレスト初登頂を成し遂げる過程でここを経由した。彼らは1953年5月29日に、氷雪と岩の間にあった裂け目を伝ってここを登攀した[11]。ヒラリーの報告によると、このステップに積もった雪は標高の低い場所の雪よりも強固なものだった[12]。ヒラリーは1953年に次のように述べている[13][14]
1時間ほど順調に進んだ後、この稜線で最も手強そうな課題の足元にたどり着いた。高さ40フィートほどにも及ぶ岩のステップだ。ステップの存在は航空写真で知っていたし、Thyangbocheから望遠鏡でも視認していた。この高度ではこのステップが成功と失敗を分けることになるのは実感できた。この滑らかでほとんど手足を掛ける余地の無い岩それ自体は、湖水地方にいるロッククライミングの手練れであれば、日曜の午後にでも取り組むような課題だろう。しかしここでは、我々の弱々しくなった体力にとって越えがたい障壁だった。西側は切り立った断崖で進路を見出せなかったが、幸運にも他のやり方で挑める可能性が残っていた。東側には著しい雪庇があり、岩と雪の間には狭い裂け目が40フィートの岩全体を通じて伸びあがっていたのだ。テンジンはロープでつながれているので精一杯であったが、私は裂け目の中に押し込むように進路を取り、クランポンを後ろに蹴り出して、そのスパイクを私の背後にある氷雪の深くに沈め、地面から体を持ち上げた。小さな岩石の手掛かりや、振り絞れるだけの膝、肩、腕の全ての力を活用して、雪庇が岩に繋ぎ止められたままであることを心から祈りながら、クランポンを用いて文字通りで裂け目を上向きに後退して行ったのだ。私の進行はかなりの奮闘にもかかわらず遅かったが、着実なものだった。テンジンがロープを繰り出すにつれ、私は進路を少しずつ上に伸ばし、ついに岩の上に到達した。私は裂け目から広い岩棚へと自身の体を引きずり出した。しばらくの間、横たわって息を落ち着かせると、今や何ものも我々が山頂に至ることを止められないという強烈な決意を初めて実感したのだった。私は岩棚の上に立ち構えテンジンに登って来るように合図を送った。ロープを強く引っ張るとテンジンは裂け目の中を何とかよじ登り、ついに上端に達して疲労からその場に倒れ込んだ。それはまるで大変な抵抗の末に釣り上げられた巨大な魚のようだった。
ヒラリー・ステップは、ヒラリーらの直前に登頂に挑んだトム・ボーディロンとチャールズ・エヴァンスのアタック隊も目にしていた。彼らは5月26日にエベレスト南峰に到達したが、時刻が午後1時と遅かったため山頂へ挑むことなく引き返している。ドーム状の雪で覆われた南峰からは、山頂へ至る最後の高低差90メートルの道筋を間近で見ることができた。彼らは雪の積もった穏やかな稜線を期待していたが、実際には細かな雪の弧と氷をまとった岩場であり、左側は急峻で、右側はオーバーハングした雪庇になっていた。それは3分の2ほど登ったところで手に負えそうのない40フィート(12メートル)の岩石ステップで遮られていた[15]。
現代の登攀
[編集]近年では、ヒラリー・ステップの上昇および下降は固定ロープの助けを借りるのが一般的である。通例ではそのシーズンで最初にステップを登攀したチームがロープを設置する。登山者数の増加に伴いこのステップは頻繁に登山ルート上のボトルネックとなっており、ロープの順番待ちにかなりの時間を浪費することがある。これは効率的な登山と下山を行う上で問題である。ステップを同時にトラバースできる登攀者は1人までである[16]。2015年の崩壊以前では、良好な状況下では南峰からステップまで2時間、ステップの断崖に1~2時間、ステップ上部から主峰まで20分を要した[16]。
2015年以前の下山ルートは次のようなものだった[3][5]
- エベレスト山頂
- 山頂へ向かう最後の傾斜路
- ヒラリー・ステップ - 高さ40フィート(12メートル)の岩壁
- コーニス・トラバース - 切り立った尾根
- エベレスト南峰
- バルコニー - 標高2万7500フィート(8400メートル)[5][17]
2015年大地震の影響
[編集]2016年、前年4月に起きたネパール地震の影響でヒラリー・ステップの地形が変化している可能性が示された。ただし当時ステップは厚い雪で覆われていたため詳しいことは分からなかった[18][19]。登山家のケントン・クールはヒラリー・ステップが「12~15フィート [3.7~4.6メートル] の高さしかない」と記述している"[20]。2017年5月、登山家のTim Mosedaleを含む登山者は、「ヒラリー・ステップはもはや存在しない」と報告しているが、地形の変化がどこまで及び、どう解釈すべきかについてはまだ初期の段階にあった[21][22][23][24][25][26][27]。
地震発生を跨いだ2013年と2016年を含め、6回のエベレスト登頂経験のあるDavid Liañon Gonzalezもまたステップの地形が変化したことを報告している[28][29][30]。ネパールの主要な登山家の中には、ステップ自体は影響を受けておらず、以前より厚い雪に覆われていると報告した者もおり、ネパール山岳協会の会長であるアン・ツェリン・シェルパもその一人だった[31][32]。しかしながら、彼は2017年後半に開かれた写真展で2006年から2016年に撮影された写真を見た後に、少なくともステップ上方の一部に変化が生じていることを認めた[33]。
エドモンド・ヒラリーの息子で登山家でもあるピーター・ヒラリーは、ステップについて写真を元に意見を求められた[34]。彼はステップが部分的に現存することを認めたものの、何らかの変化が生じたと考えているようだった。特に、新しい表面を露出させた砕けた岩石らしきものが写っていることを指摘している[34]。2017年6月はじめには、より多くの登山者による報告と写真証拠が集まり、登山家・ガイドのギャレット・マディソンは変化が起きたのは確実と結論した[2]。15回のエベレスト登山経験のある登山ガイドのデイブ・ハーンも、写真を見て変化が生じたことに同意した[2]。いくつか岩石が消失し、新鮮な表面を持つ岩石により新しく刻まれた傷跡が認識されるとともに、このランドマークが失われたことに対する特別な悲しみが山岳コミュニティーの間に広まった[2]。ハーンはこのステップがヒラリーとテンジンに対してどれほどの賛辞だったかについて、また彼がステップを登るときに常に二人について思いを馳せていたことについて述べている[2]。
2017年後半、山岳ガイドのラクパ・ランドゥはネパール観光局でヒラリー・ステップのエリアがどのように変化したのかを示す写真展を開いた[33]。ランドゥは2005年以降に、大地震前後を含めて複数回エベレストに登っていると同時に、訓練を積んだ写真家でもあり、このステップの歴史を写真で提示した。彼は、ネパールとチベットに甚大な被害を与えた大地震によってステップは砕かれて、なくなってしまったと述べている[33]。
参考文献
[編集]- ^ Vajpai, Arjun (10 November 2010) (英語). ON TOP OF WORLD: My Everest Adventure. Penguin UK. ISBN 9788184753042
- ^ a b c d e Bouchard, Jay (2017年6月12日). “American Climbers Confirm the Hillary Step Is Gone” (英語). Outside Online 2017年6月14日閲覧。
- ^ a b Kumar, Ravindra (14 February 2017) (英語). Many Everests: An Inspiring Journey of Transforming Dreams Into Reality. Bloomsbury Publishing. ISBN 9789386141347
- ^ “Into Thin Air - Photos”. intothinairmcwilliams.wikispaces.com. 20 May 2017閲覧。
- ^ a b c Hamill, Mike (4 May 2012) (英語). Climbing the Seven Summits: A Comprehensive Guide to the Continents' Highest Peaks. The Mountaineers Books. ISBN 9781594856495
- ^ Scientific American - Because It’s Not There: Climbers May Face Danger If Everest’s Hillary Step Collapsed (May 25, 2017)
- ^ “Fallen Giants: A History of Himalayan Mountaineering from the Age of Empire to the Age of Extremes”. Yale University Press (1 February 2010). 22 May 2017閲覧。
- ^ Boukreev, Anatoli; DeWalt, G. Weston (22 September 2015) (英語). The Climb: Tragic Ambitions on Everest. St. Martin's Press. ISBN 9781250099822
- ^ Carter, H. Adams (1991-01-01) (英語). American Alpine Journal, 1991. The Mountaineers Books. ISBN 9780930410469
- ^ “Is an Everest Climb "Technical"?”. OutsideOnline.com (30 March 2010). 28 May 2017閲覧。
- ^ Whipple, Heather (2007) (英語). Hillary and Norgay: To the Top of Mount Everest. Crabtree Publishing Company. ISBN 9780778724186
- ^ Isserman, Maurice; Weaver, Stewart; Molenaar, Dee (1 February 2010) (英語). Fallen Giants: A History of Himalayan Mountaineering from the Age of Empire to the Age of Extremes. Yale University Press. ISBN 0300164203
- ^ なお文中でテンジンを釣り上げられた魚に例えた部分はテンジンの不興を買い、後の記述では「魚」の直喩は削除されている。
- ^ Hunt, John (1953). The Ascent of Everest. London: Hodder & Stoughton. p. 204 The Summit (Chapter 16, pp 197-209) is by Hillary.
- ^ Gill, Michael (2017). Edmund Hillary: A Biography. Nelson, NZ: Potton & Burton. pp. 202, 257. ISBN 978-0-947503-38-3
- ^ a b Hamill, Mike (4 May 2012). “Climbing the Seven Summits: A Comprehensive Guide to the Continents' Highest Peaks”. The Mountaineers Books. 22 May 2017閲覧。
- ^ Leo and jack (25 May 2016). “Did Everest’s Hillary Step collapse in the Nepal earthquake?”. MarkHorrell.com. 26 May 2017閲覧。
- ^ “Did Everest’s Hillary Step collapse in the Nepal earthquake?” (英語). Mark Horrell. (25 May 2016) 19 May 2017閲覧。
- ^ 'I honestly couldn't recognise it' – the Hillary Step has changed. Stuff August 19, 2016. Retrieved 20 August 2016.
- ^ Cool, Kenton (2015). One Man’s Everest. London: Preface (Penguin Random House). p. 120. ISBN 9781848094482
- ^ “Tim Mosedale on Twitter” (英語). Twitter 22 May 2017閲覧。
- ^ Herald, New Zealand. “Mt Everest's Hillary Step potentially collapsed in earthquake”. m.nzherald.co.nz. 19 May 2017閲覧。
- ^ “Everest Hillary Step collapsed” (英語). PlanetMountain.com 19 May 2017閲覧。
- ^ “Summit Without the Hillary Step!”. AlanArnette.com. 22 May 2017閲覧。
- ^ “Mt Everest's Hillary Step destroyed”. Newshub (20 May 2017). 2020年12月1日閲覧。
- ^ Lyons, Kate (21 May 2017). “Mount Everest's Hillary Step has collapsed, mountaineer confirms”. TheGuardian.com. 22 May 2017閲覧。 “Mosedale, who reached Everest’s summit for the sixth time on 16 May, posted a photograph of what remains of the Hillary Step when he returned to base camp. It shows the topography has changed significantly compared with photographs taken a few years ago.”
- ^ “Everest's Hillary Step: Has it gone or not?” (英語). BBC News. (22 May 2017) 22 May 2017閲覧。
- ^ “Everest 2017: Teams Prepare for Huge Summit Push - The Blog on alanarnette.com”. AlanArnette.com (17 May 2017). 26 May 2017閲覧。
- ^ “Rush for Everest glory, records begin”. The Hindustan Times. (May 20, 2013). オリジナルの2013年5月22日時点におけるアーカイブ。 20 May 2013閲覧。
- ^ “2 Brits, Mexican are 1st foreigners on Everest in 2 years”. SeattleTimes.com (11 May 2016). 26 May 2017閲覧。
- ^ “Mount Everest's Hillary Step is still there, say Nepalese climbers”. The Guardian. (May 23, 2017) May 24, 2017閲覧。
- ^ Gurubacharya, Binaj (23 May 2017). “Nepali climbers say outcrop near top of Everest is intact”. APNews.com. 26 May 2017閲覧。
- ^ a b c Rangdu’s photo exhibit reveals truth about Hillary Step
- ^ a b “Mount Everest's Hillary Step is missing a 'large block' but is still there, mountaineer's son says”. Stuff. 26 May 2017閲覧。
外部リンク
[編集]- Rock and Ice - The Hillary Step: Gone, Altered, or Simply Hidden? (May 2017)
- Link to a picture of the Hillary Step feature (circa 2008)
- Part way down is picture from on it looking up
- Gallery with many step photos
- Helmet cam near step at around 1:30
座標: 北緯27度59分13.6秒 東経86度55分32.3秒 / 北緯27.987111度 東経86.925639度