ヒマンシュ・ラーイ
ヒマンシュ・ラーイ Himanshu Rai | |
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ヒマンシュ・ラーイ(1927年) | |
別名義 | Himansu Rai |
生年月日 | 1892年 |
没年月日 | 1940年5月16日 |
出生地 | イギリス領インド帝国 ベンガル管区カタック |
職業 | 映画監督、映画プロデューサー、俳優 |
配偶者 |
メアリー・ハインリン(1924年-1926年) デーヴィカー・ラーニー(1929年-1940年、死別) |
ヒマンシュ・ラーイ(Himanshu Rai、1892年 - 1940年5月16日)は、インドの映画製作者。インド映画のパイオニアの一人であり[1]、妻デーヴィカー・ラーニーと共に映画製作会社ボンベイ・トーキーズを設立した。代表作に『亜細亜の光』『シーラーズとセリマ』『南国千一夜』がある。
生涯
[編集]キャリア
[編集]ベンガル貴族の出身で、サンティニケタンの学校に進学した。法学の学位を取得した後にコルカタを離れ、ロンドンに移住して弁護士となった。1922年にラーイは同地で脚本家のニランジャン・パルと出会っている[3]。この出会いをきっかけに『アジアの光』を製作することになり[3]、ラーイはフランツ・オステンと共同監督を務めた。また、『南国千一夜』の製作中にニランジャンの紹介でラビンドラナート・タゴールの大姪デーヴィカー・ラーニーと出会い、1929年に彼女と結婚した[3]。
1934年に妻デーヴィカー、ニランジャンと共に映画製作会社ボンベイ・トーキーズを設立した[3]。ラーイはサシャダール・ムカルジーと提携し、彼の兄弟をスタッフに起用した。彼は、ある映画の撮影中に主演俳優と妻デーヴィカーの関係を疑い主演俳優を解雇し、代わりにアショーク・クマールを起用し、アショークは俳優としてのキャリアを成功させたという[4]。
死後
[編集]ラーイの死後、会社の運営を巡りデーヴィカーとムカルジー、アショークの対立が顕在化して二重経営状態となった[5]。ムカルジーとアショークは後に独立して映画製作会社フィルミスタンを設立し[5]、彼が離脱したボンベイ・トーキーズは零落した。デーヴィカーは1945年にスヴャトスラフ・レーリヒと再婚し、映画製作から引退した[5]。アショークは後にボンベイ・トーキーズに戻り、1949年に『Mahal』を製作してボンベイ・トーキーズを再興している[5]。
フィルモグラフィ
[編集]- 亜細亜の光(1925年) - 監督、出演
- シーラーズとセリマ(1928年) - 製作、出演
- 南国千一夜(1929年) - 製作、出演
- カルマ(1929年) - 製作、出演
- Jeevan Naiya(1934年) - 製作
- Jawani Ki Hawa(1935年) - 製作
- Janmabhoomi(1936年) - 製作
- 不可触民の娘(1936年) - 製作
- Savitri(1937年) - 製作
- Jeevan Prabhat(1937年) - 製作
- Izzat(1937年) - 製作
- Kangan(1939年) - 製作
出典
[編集]- ^ “Himanshu Rai’s 1928 film Shiraz restored for UK-India Year of Culture”. Hindustan Times. 2020年2月22日閲覧。
- ^ “インド映画初のキスシーンも、ニューデリーで映画祭”. AFP. 2020年2月22日閲覧。
- ^ a b c d “Remembering Niranjan Pal, visionary screenwriter, co-founder of Bombay Talkies”. Cinestaan. 2020年2月22日閲覧。
- ^ “Ashok Kumar: Lesser Known Facts”. India Times. 2024年3月31日閲覧。
- ^ a b c d “When Ashok Kumar saved Bombay Talkies”. Cinestaan. 2020年2月22日閲覧。