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パーヴェル・ルィチャゴフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ルィチャゴフ
Павел Васильевич Рычагов
1938年のルィチャゴフ
生誕 1911年1月2日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国モスクワ県モスクワ郡ロシア語版ニジニエ・リホボルィ
死没 (1941-10-28) 1941年10月28日(30歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国クイビシェフ州クイビシェフ
所属組織 赤色空軍
軍歴 1928年 - 1941年
最終階級 中将
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パーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ルィチャゴフロシア語: Павел Васильевич Рычагов[1]1911年1月2日 - 1941年10月28日[2])は、ソ連の軍人。ソ連邦英雄スペイン内戦日中戦争冬戦争で活躍したエース・パイロット赤色空軍司令官にまでのぼりつめるも、スターリンを公然と批判したことで失脚、大祖国戦争の折に粛清された[3][4]

経歴

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ロシア帝国モスクワ県ニジニエ・リホボルィの農家出身。幼少期は取り立てて目立つ事はなかったが、ラウンダーズや凧が好きな活発な少年だったという[5]。中学卒業後、工員として働いていたが、1928年に赤軍に入隊。1930年のレニングラード軍事技術学校ロシア語版卒業を経て、1931年ボリソグレプスクロシア語版第2航空学校ロシア語版に入学[2]。卒業後はキエフ軍管区英語版ジトーミルの第36航空旅団隷下の第109中隊に配属される。

1936年10月20日、スペイン内戦に参戦。10月28日、ルィチャゴフら25機のI-15と25人の航空兵、36名の整備士と20名の地上要員を載せた「カール・レピン号」が共和国陣地のカルタヘナに降り立った。(のちビルバオに15機増援)[6]。11月4日、部隊はマドリード上空にてユンカースJu 522機およびフィアット CR.322機を撃墜、一方の部隊の損害は0だった。以降11月中旬までに総計12機を撃墜する成果を上げた。

しかし勝利も束の間、16日、ルィチャゴフ自身の乗機が撃墜され、以降20日までの間に部隊の航空機の大部分が撃破や鹵獲されるという苦境に陥るも、戦闘機30機など本国からの大規模な増援で一転攻勢、以降終戦までに総計40機もの敵機を撃墜した[2]。帰国したルィチャゴフは一躍英雄となり、12月31日にソ連邦英雄およびレーニン勲章を受章、また翌年にはわずか26歳で少将となった。

1937年12月12日第1期連邦最高会議代議員ロシア語版ポルタヴァ州代表として当選。

1937年12月、ソ連空軍志願隊部隊長となり日本軍との戦闘や中国空軍航空兵の指導にあたった。1938年2月23日には、ヒョードル・ポルィーニンロシア語版大尉率いるSB爆撃隊に同乗、台北の松山飛行場への爆撃を指揮[7]

4月上旬、モスクワ軍管区の航空隊司令官に就任するも、わずか10日で海上集団軍ロシア語版航空隊司令官に転任[8]

その後、極東軍(4月~9月)、第1赤旗軍ロシア語版で航空隊司令官をつとめた。

1939年11月、第9軍ロシア語版航空司令官に就任、冬戦争を指揮[2]

1940年3月、中将に昇進、また空軍総局の第一副委員を経て10月28日に空軍総局局長に就任[9]、また翌年2月にはヨシフ・スターリンクリメント・ヴォロシーロフの推薦で国防人民委員部副委員となる。しかし4月9日、ソ連共産党政治局の会議の場にてスターリンを批判した、いわゆる「空飛ぶ棺桶事件」で12日、解任された。

イワン・イサコフは当時の状況を次のように述べている。

毎日平均して2,3件の航空機事故が起こっている。年間では600~900機もの損失になる。

これは航空事故率の高さを示していた。スターリンは―彼の習慣だった―パイプを吹かし、議席のテーブルに沿って歩いていた。私たちは順番に事故を説明した、その順番がルィチャゴフに回ってくるまで。彼は若かった…ましてや、一瞥しただけでは完全に少年と見まがうほどだった。そして、自分の番が回って来たときに、彼は突然言い放った。

- 事故ばかりなのは、あなたが我々を空飛ぶ棺桶で飛ばせているからだ!

完全に予想外だった。彼は顔を赤らめて憤慨し、それからは絶望的な沈黙が訪れた。スターリンを目と鼻の先で怒鳴る彼を止めるすべなどなかった。スターリンは航空機のために最大限の努力と研究を費やしていたし、それに関連する問題も理解していた。

この発言は明らかにスターリンに対するルィチャゴフの私的な侮辱であった。スターリンは立ち止まり、黙ったままだった。皆は次に起こる事を待っていた。スターリンはその後、先程と同じ方向に歩き出し、テーブルから去って行った。そして、出口へ行った後、無言で席に戻り、口からパイプを離すと、声を荒げる事無く、ゆっくりと静かに言った。

- 君がそんなことを言ってはならん!

そして、スターリンはもう一度部屋から出た。しかし再び出口まで来ると引き返し、部屋を歩き回った。そして最初と同じ場所に戻り、再び同じようにゆっくりと穏やかな口調で言った。:

- 君はそんなことを言ってはならんのだ! - と、しばらく間をおいて付け加えた: - 閉会だ。

そして、真っ先に部屋から飛び出した。[10]

このころ、ソ連共産党政治局は「内部の怠慢」から空軍への疑念を強めており、その結果ルィチャゴフの他にも幹部数名が更迭されていた。さらに追い打ちをかけるように、5月にドイツ空軍輸送機の侵入を許したことは空軍および防空軍司令官らの粛清を決定づけた。ルィチャゴフと同じくスペイン内戦の英雄エルンスト・シャハト英語版少将やヤーコフ・スムシュケーヴィチ英語版中将、ピョートル・プンプルロシア語版中将、沿バルト軍管区司令官アレクサンドル・ロクチオノフ 英語版上級大将、国防人民委員部防空局長グリゴリー・シュテルンらが次々と逮捕、ルィチャゴフもドイツ軍侵攻数日後の6月24日に逮捕され、レフ・ヴロジミルスキーからの拷問の末に対独協力を「自白」、妻のマリヤ・ネステレンコロシア語版少佐とともに処刑された。享年30。

1954年、名誉回復。

エピソード

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1932年の冬、操縦していたU-2練習機が着陸に失敗しそうになった。副操縦士が操縦席で機体の体勢を維持している間、ルィチャゴフは翼に乗りタイヤ代わりに使われていたスキー板を蹴って体勢を持ち直したという[11]

栄典

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脚注

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  1. ^ ラテン文字表記の例:Pavel Vasilievich Rychagov
  2. ^ a b c d General Leytenant Pavel Vasilevich Rychagov HSU”. 24 September 2013閲覧。
  3. ^ Michael Parrish. The Lesser Terror: Soviet State Security, 1939–1953. Westport, Conn: Praeger, 1996. ISBN 0-275-95113-8. P. 71–76.
  4. ^ 1941: Twenty Red Army officers” (28 October 2010). 24 September 2013閲覧。
  5. ^ Рычагов Павел Васильевич”. 2016年8月1日閲覧。
  6. ^ Maslov, Mikhail A. Polikarpov I-15, I-16 and I-153. Oxford, UK: Osprey Publishing, 2010. ISBN 978-1-84603-981-2.
  7. ^ 中山雅洋 『中国的天空(上)沈黙の航空戦史』 大日本絵画、2007年。ISBN 978-4-499-22944-9 P320
  8. ^ Рычагов Павел Васильевич
  9. ^ Hooton, E.R. The Luftwaffe: A Study in Air Power, 1933–1945. London: Arms & Armour Press, 2010. ISBN 978-1-906537-18-0
  10. ^ Е. Н. Гусляров.Сталин в жизни : систематизированный свод воспоминаний современников, документов эпохи, версий историков”. Олма-Пресс, 2003.. 2016年11月26日閲覧。P665-666
  11. ^ Павел Рычагов

外部リンク

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  • "パーヴェル・ルィチャゴフ". Герои страны ("Heroes of the Country") (ロシア語). ウィキデータを編集
軍職
先代
ヴァシーリー・クルデュモフ
ソ連空軍志願隊総顧問
第2代:1937.12 - 1938.4
次代
アレクセイ・ブラゴヴェシチェンスキーロシア語版
先代
ヤーコフ・スムシュケーヴィチ英語版
空軍総局局長
第11代:1940.10.28 - 1941.4.14
次代
パーヴェル・ジーガレフ英語版