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パーヴェル・バタショフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パーヴェル・ヴァシリエヴィチ・バタショフ
Павел Васильевич Баташов
生年月日 (1886-06-26) 1886年6月26日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国トゥーラ県ロシア語版トゥーラ郡トゥーラ
没年月日 1971年(84 - 85歳没)
前職 機械工など
所属政党メンシェヴィキ→)
ボリシェヴィキ→)
ソビエト連邦共産党
称号 1941年-1945年大祖国戦争における対ドイツ戦勝記章ロシア語版[1]

ロシア共産党ウラル州ロシア語版委員会
第二書記
在任期間 1923年12月 - 1924年

ウラル州ソビエト執行委員会副議長
在任期間 1928年1月 - 1929年5月

全連邦共産党(ボ)ペルミ市委員会
責任書記
在任期間 1930年8月 - 1931年8月

全連邦共産党(ボ)ジェルジンスク市委員会
責任書記・第一書記
在任期間 1931年10月 - 1937年11月

ジェルジンスク市ソビエト執行委員会議長
在任期間 1937年11月 - 1938年5月
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パーヴェル・ヴァシリエヴィチ・バタショフ(バタシェフ)ロシア語: Павел Васильевич Баташов (Баташев)1886年6月26日 - 1971年)は、ロシアの革命家・ソビエト連邦の政治家。

生涯

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前半生

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1886年6月26日、ロシア帝国トゥーラ県ロシア語版トゥーラの労働者階級に生まれた[2]1899年まで4年制学校に通い、同年から1903年1月までは配管工、同月からは機械工として働き[3]1905年末にロシア社会民主労働党に入党[2]。翌1906年初頭には図書館員となり、また年内にはトゥーラ金属労働者組合にメンシェヴィキとして加入した[2]1907年から1911年までハバロフスク[4]従軍し、復員後の同年末に金属労組理事会メンバーとなった[2]1912年ボリシェヴィキへ移り、同年10月には逮捕されて1か月服役[2]1914年4月には党トゥーラ委員会メンバーに選出され、同年6月にはサンクトペテルブルクの「ヴルカン」工場に機械工として入った[2]。翌1915年10月から1916年4月までは「ガマユク」気球工場で勤務[3]。同月には革命活動により再逮捕され、9月には前線へ送られたが、軍務不適としてペルミ県ルィシヴァロシア語版冶金工場 (ru) へ送られた[2]

革命期

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工場でも宣伝活動を行い、1917年2月にはルィシヴァ・ソビエトの最初の代議員に選出された[2]。翌3月から5月まではソビエト書記、5月から翌1918年4月までは議長[5]、同年3月から翌1919年1月までは副議長も務め、同月から3月まではウファ郡ロシア語版軍事委員、同月から翌1920年1月まではウファ県ロシア語版委員補および党県委およびウファ市委メンバーにも就いている[4]

他方1918年には赤衛隊ロシア語版参謀部に加わり[2]、4月から12月までルィシヴァ軍事委員ロシア語版、翌1919年1月から11月まで郡軍事委員、同月から翌1920年4月までエニセイスク県ロシア語版軍事委員補を歴任[5]。ルィシヴァの軍事革命参謀部を指導した[2]

後半生

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翌5月から1922年6月までは党ルィシヴァ地区委責任書記、同月から翌1923年4月まではペルミ県委組織部部長、同月から11月まではエカテリンブルク郡ロシア語版委責任書記を務め[5]、同年4月には党中央委ウラル局メンバー候補として承認された[2]。12月から翌1924年まで党ウラル州ロシア語版委第二書記、同年から翌1925年までスヴェルドロフスク管区 (ru) 委責任書記、同年8月から10月まで州ソビエト執行委幹部会書記[4]、同月から1927年12月までチェリャビンスク管区 (ru) 委責任書記を歴任し、1925年12月31日から1927年12月19日までは中央統制委ロシア語版メンバーでもあった[5]。翌1928年1月から1929年5月までウラル州ソビエト執行委副議長、同月から1930年8月まで党サラプル管区 (ru) 委責任書記、同月から翌1931年8月までペルミ市委責任書記、同年10月から1937年11月までジェルジンスク市委責任・第一書記、同月から翌1938年5月まで同市ソビエト執行委議長も務めた[5]

第2回ロシア語版から第8回 (ru) までの全ロシア・ソビエト大会ロシア語版第14回ロシア語版から第17回ロシア語版までの党大会や[3]、第15回と第16回 (ru) の党会議 (ru) にも出席[4]。『プロレタルスコエ・ズナーミャ』紙編集者やコムバンク・ソビエト議長にも就いたが[4]、1938年10月から1940年2月までは「人民の敵ロシア語版との接触」を理由に[1]ゴーリキー市刑務所に収監された[3]1942年から1945年まではジェルジンスク避難病院で宣伝活動に従事し、その後1971年に死去した[1]

脚注

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  1. ^ a b c БАТАШОВ ПАВЕЛ ВАСИЛЬЕВИЧ”. Дзержинск-1930.ru. 2018年9月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k Баташов Павел Васильевич”. Пермский государственный архив социально-политической истории. 2018年9月11日閲覧。
  3. ^ a b c d Баташев Павел Васильевич”. Пермский государственный архив социально-политической истории. 2018年9月11日閲覧。
  4. ^ a b c d e Баташев Павел Васильевич”. Энциклопедия Челябинской области. 2018年9月11日閲覧。
  5. ^ a b c d e Баташов Павел Васильевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年9月11日閲覧。
党職
先代
なし
ロシア共産党(ボ)ウラル州委員会第二書記
1923年12月 - 1924年
次代
イヴァン・ルミャンツェフロシア語版
先代
コンスタンチン・ゲイ
エカテリンブルク管区
ロシア共産党(ボ)スヴェルドロフスク管区委員会責任書記
1924年 - 1925年
次代
イヴァン・ルミャンツェフ
全連邦共産党
先代
アンドリアン・プリレフスキー
ロシア共産党(ボ)チェリャビンスク管区委員会責任書記
1925年12月から全連邦共産党
1925年10月 - 1927年12月
次代
パーヴェル・チウノフ
先代
G・E・モロゾフ
全連邦共産党(ボ)サラプル管区委員会責任書記
1929年5月 - 1930年8月
次代
なし