パリ条約 (1635年)
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パリ条約(パリじょうやく、ドイツ語: Vertrag von Paris)は、1635年2月8日、フランス王国とネーデルラント連邦共和国の間の条約。条約は対スペインの攻守同盟であり、両国の軍の供出のほか、スペイン領ネーデルラントを征服できる場合の分割を定めた[1]。
背景と影響
[編集]フランスは100年以上の間、その国境でハプスブルク家領に圧倒されてきた。軍事上ではスペイン、スペイン領ネーデルラント、ドイツ南西部と包囲されていると感じていた。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世がネルトリンゲンの戦いでスウェーデンを大敗させた後、カトリックを支持した帝国軍は西へと進軍してきた。フランス王ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿はスペインとオーストリアを撃破するために同盟先を探した。この時にはフランス軍は帝国軍の騎兵より弱いとされたため、フランスは敵軍を数か所で釘付けにする方策に打って出た。
したがって、1634年のパリ条約を批准しなかったプロテスタント側のスウェーデンとはコンピエーニュ条約を締結し、ほかにもサヴォイア公国、マントヴァ公国、パルマ公国とも同盟を締結した。これによりフランスは直接介入の準備を整え、1635年5月19日に宣戦布告して正式に参戦し、マドリードの宮廷とスペイン領ネーデルラント総督フェルナンド・デ・アウストリアにもそれを通告した。
脚注
[編集]- ^ Setton, Kenneth Meyer (1991). Venice, Austria, and the Turks in the Seventeenth Century. American Philosophical Society. p. 65