パウル・グリュンマー
パウル・グリュンマー Paul Grümmer | |
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パウル・グリュンマー (1903年以前) | |
基本情報 | |
生誕 | 1879年2月26日 |
出身地 | ゲーラ |
死没 | 1965年10月30日(86歳没) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | チェロ奏者、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者 |
担当楽器 | チェロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ |
共同作業者 | ヤン・クーベリック、アドルフ・ブッシュ |
パウル・グリュンマー (Paul Grümmer, 1879年2月26日 - 1965年10月30日) は、ドイツのチェリスト、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者である。
生涯
[編集]1879年2月26日、チューリンゲン地方東部ゲーラに生まれる[1]。父のデトレフはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン出身の宮廷音楽家で、ゲーラのロイス侯爵邸のオーケストラのコンサートマスターを勤めたり、室内楽の演奏を行ったりした[1][2][3]。
8歳の時から父よりヴァイオリンを習い、14歳になると、フリードリヒ・グリュッツマッハーの弟子であり、ゲーラ市のオーケストラのチェリストを務めたエミール・ベーメ、および宮廷音楽家のフリードリクスからチェロのレッスンを受けた[2][3]。その後、ライプツィヒ音楽院でユリウス・クレンゲルとフーゴー・メラーに師事し、さらにフランクフルトでフーゴー・ベッカーに師事した[1][4][5]。また、ウジェーヌ・イザイ、アルトゥール・ニキシュを芸術上の模範とした[3]。
1898年にドイツ、ラトヴィア、ヨーロッパ各地でコンサートを開いたのち、1902年にはイギリス王、イギリス王妃の前で演奏を行い、コヴェント・ガーデンを中心にソリストとしての活動をアメリカやヨーロッパ各地で展開した[1][2]。ヴィルヘルム・バックハウス、ヤン・クーベリック、ブロニスワフ・フーベルマン、ヴァーシャ・プシホダ、フランツ・フォン・ヴェチェイらと共演するとともに、自身のオーケストラを組織して演奏旅行を行ったり、1905年にはウィーン楽友協会オーケストラ、ウィーン国立歌劇場管弦楽団のソロ・チェリストに就任したりした[6][2]。また、ドイツ各地の宮廷や、イギリスの王宮でも演奏を行った[3]。
室内楽の分野でも、ヤン・クーベリック弦楽四重奏団の一員として活躍するとともに、1919年にはブッシュ弦楽四重奏団の創立に携わった[1][6]。第1ヴァイオリンはアドルフ・ブッシュ、第2ヴァイオリンはカール・ライツ、ヴィオラはエミール・ボーンケという布陣で、ベルリンで創設したのち、デュッセルドルフのリッターザールでデビューコンサートを行った[7]。その後は各種弦楽四重奏曲のレコーディングを行ったり、ソリストとしてブラームスの『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』をブッシュと共演したりしたが、ナチス・ドイツが台頭すると、ナチスの支持者であったグリュンマーと他の3名が対立し、1930年に脱退した[7][8][† 1]。なお、グリュンマーの後任はヘルマン・ブッシュであった[8]。
ウィーン、ケルン、ベルリンなどで教鞭を取ったのち、1946年に引退し、スイスのツオリコンに移住して後進の指導を行った[6]。また、生地ゲーラの名誉市民となった[10]。1965年10月30日に永眠し、スイス中北部のツークに葬られた[6][10]。
作曲活動など
[編集]1925年に『上級者のためのチェロ練習曲』を出版したほか、1944年にヨハン・セバスティアン・バッハの『無伴奏チェロ組曲』の校訂を行ったり[† 2]、17世紀から18世紀にかけての作品の編曲を行ったりした[6][12][3][10]。
同時代の作曲家との交流
[編集]エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ、パウル・グレーナー、ユリエ・キルピネン、アレクサンドル・チェレプニンらがグリュンマーに曲を献呈した[10]。また、マックス・レーガーは『無伴奏チェロ組曲イ短調 作品131c』を、ルドルフ・モーゼルは『ヴィオラ・ダモーレとガンバ、および弦楽オーケストラのための二重協奏曲 作品74』を献呈した[10]。
ヴィオラ・ダ・ガンバの復興者として
[編集]1925年に『ヴィオラ・ダ・ガンバ演奏法』を、1928年に "Viola da Gamba Schule für Violoncellisten und Freunde der Viola ga Gamba" を出版し、ヴィオラ・ダ・ガンバの復興に尽力した[6][12]。チェンバロ奏者ワンダ・ランドフスカとのリサイタルなどのソロ活動を行うとともに、他の古楽器とのアンサンブルも行っており、チェンバロ奏者のギュンター・ミラン、ヴィオラ・ダモーレ奏者にしてグリュンマーの配偶者であるマルゴ・グリュンマー、同じくヴィオラ・ダ・ガンバ奏者である娘のシルヴィアらと共演した[12][10]。グリュンマーは、古い音楽をオリジナルの楽器で演奏することを志向していた[10]。
また、グリュンマーはマルタン・ベルトーらのチェロの通奏低音ソナタについて、本来はヴィオラ・ダ・ガンバのために作曲されたと主張したが、チェロ研究家のエリザベス・カウリングはこれを否定している[13][14][15][16]。
教育活動
[編集]1907年から1913年にかけてウィーン音楽アカデミーで、1926年から1933年にかけてケルン音楽大学 で、1933年から1940年にかけてベルリン音楽大学で教鞭をとり、1940年から1946年にかけて再びウィーン音楽アカデミーで教えた[6]。他にもザルツブルク、リスボンで教鞭をとった[3]。また、1946年に引退したのちはスイスに移住し、チューリヒやツェルマットで後進の指導にあたった[6]。
弟子にリヒャルト・クロチャック[17][18]、ニコラウス・アーノンクール[19][20][21][22]、アウグスト・ヴェンツィンガー[23]がいる。
レコーディング
[編集]1922年、ブッシュ弦楽四重奏団の一員として、ハイドンのセレナーデ全曲、モーツァルトの『弦楽四重奏曲第21番』の第2楽章と第3楽章、シューベルトの『弦楽四重奏曲第15番』の第3楽章、ヴェルディの『弦楽四重奏曲 』の第3楽章をシンポジウム・レーベルに録音した[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 村田 1982, p. 585.
- ^ a b c d キャンベル 1994, p. 124.
- ^ a b c d e f ベッキ 1982, p. 167.
- ^ キャンベル 1994, p. 120.
- ^ キャンベル 1994, p. 123.
- ^ a b c d e f g h 村田 1982, p. 586.
- ^ a b 幸松 2011, p. 115.
- ^ a b c 幸松 2011, p. 116.
- ^ 馬場 1982, p. 810.
- ^ a b c d e f g h ベッキ 1982, p. 168.
- ^ カウリング 1989, p. 100.
- ^ a b c d キャンベル 1994, p. 125.
- ^ カウリング 1989, p. 129.
- ^ カウリング 1989, p. 130.
- ^ カウリング 1989, p. 131.
- ^ カウリング 1989, p. 259.
- ^ バルトロメイ 2016, p. 67.
- ^ 村田 1982, p. 862.
- ^ アーノンクール 1992, p. 334.
- ^ “Nikolaus Harnoncourt obituary” (英語). the Guardian (2016年3月6日). 2021年5月3日閲覧。
- ^ Zelger-Vogt, Marianne. “Nikolaus Harnoncourt: Der Werdegang eines begnadeten Nein-Sagers” (ドイツ語). Neue Zürcher Zeitung. 2021年5月3日閲覧。
- ^ “Timeline” (英語). Nikolaus Harnoncourt. 2021年5月4日閲覧。
- ^ キャンベル 1994, p. 330.
参考文献
[編集]- ニコラウス・アーノンクール『音楽は対話である モンテヴェルディ・バッハ・モーツァルトを巡る考察』アカデミア・ミュージック、1992年。ISBN 4870170604。
- エリザベス・カウリング 著、三木敬之 訳『チェロの本 歴史・名曲・名演奏家』シンフォニア、1989年。ISBN 9784883950720。
- マーガレット・キャンベル 著、山田玲子 訳『名チェリストたち』東京創元社、1994年。ISBN 4488002242。
- 幸松肇『世界の弦楽四重奏団とそのレコード 第2巻 ドイツ・オーストリア編 改定新版』クヮルテット・ハウス・ジャパン、2011年。ISBN 9784990641320。
- 杉浦茂「ブッシュ四重奏団」『名演奏家事典(中) シミ〜フレイレ』、音楽之友社、1982年、811頁、ISBN 4276001323。
- 馬場健「ブッシュ、アドルフ」『名演奏家事典(中) シミ〜フレイレ』、音楽之友社、1982年、810-811頁、ISBN 4276001323。
- フランツ・バルトロメイ『この一瞬に価値がある バルトロメイ家とウィーン・フィルの120年』音楽之友社、2016年。ISBN 9784276217010。
- ユリウス・ベッキ 著、三木敬之、芹沢ユリア 訳『世界の名チェリストたち』音楽之友社、1982年。ISBN 4276216184。
- 村田武雄『演奏家大事典 第Ⅰ巻』音楽鑑賞教育振興会、1982年。 NCID BN03140657。