パウリーナ・ファン・オラニエ=ナッサウ
表示
パウリーナ・ファン・オラニエ=ナッサウ Paulina van Oranje-Nassau | |
---|---|
全名 | ウィルヘルミナ・フレデリカ・ルイーゼ・パウリーナ・シャルロッテ |
出生 |
1800年3月1日 ベルリン |
死去 |
1806年12月22日(6歳没) バート・フライエンヴァルデ |
埋葬 |
1911年4月7日 オランダ、デルフト市、新教会 |
家名 | オラニエ=ナッサウ家 |
父親 | オランダ王ヴィレム1世 |
母親 | ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン |
パウリーナ・ファン・オラニエ=ナッサウ(Paulina van Oranje-Nassau, 1800年3月1日 - 1806年12月22日)は、オラニエ公ウィレム6世(後のオランダ王ヴィレム1世)の長女。全名はウィルヘルミナ・フレデリカ・ルイーゼ・パウリーナ・シャルロッテ(Wilhelmina Frederika Louise Pauline Charlotte)で、Polly あるいは Pautje と呼ばれた。
生涯
[編集]パウリーネは1800年3月1日、オラニエ公子ウィレム(1802年にオラニエ公ウィレム6世となった)とその妃であったプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の王女ウィルヘルミナの間に、第3子として父の亡命先であるベルリンで生まれた。名前はロシア皇帝パーヴェル1世にちなむ(パウリーナはパーヴェルのオランダ語翻訳パウルの女性形)。
1806年、フランス皇帝ナポレオン1世のドイツ侵攻を受けてケーニヒスベルク(現カリーニングラード)へ逃れる途中で病を得、12月22日にバート・フライエンヴァルデ(現ブランデンブルク州メルキッシュ=オーダーラント郡)で死去した。遺体は1911年4月7日にデルフト市の新教会に改葬された。