バートン・フレンチ
バートン・フレンチ Burton French | |
---|---|
| |
生年月日 | 1875年8月1日 |
出生地 | アメリカ合衆国インディアナ州キャロル郡 |
没年月日 | 1954年9月12日 (79歳没) |
死没地 | アメリカ合衆国オハイオ州ハミルトン |
出身校 |
アイダホ大学卒業 シカゴ大学(Ph.D) |
所属政党 | 共和党 |
配偶者 | Winifred Estel Hartley French[1] |
子女 | 1人 |
選挙区 | アイダホ州全州選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1903年3月4日 - 1909年3月3日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1911年3月4日 - 1915年3月3日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1917年3月4日 - 1919年3月3日 |
選挙区 | アイダホ州第1選挙区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1919年3月4日 - 1933年3月3日 |
バートン・リー・フレンチ( 1875年8月1日- 1954年9月12日)は、アメリカ合衆国インディアナ州出身の政治家。所属政党は共和党。通算13期26年にわたって連邦下院議員として活動した。アイダホ州選出の下院議員としては史上最長の議員在職日数記録を保持している。
経歴
[編集]バートン・リー・フレンチはインディアナ州デルファイで、ミナ・フィリペナ・フレンチ(旧姓フィッシャー)とチャールズ・アルバート・フレンチの間に生まれた[2]。一家はネブラスカ州カーニー、アイダホ州プリンストンを転々とし、ワシントン州パルースに移った。フレンチは1891年にパブリックスクールを卒業し、1893年にアイダホ大学に入学したが、一時休学してアイダホ州のケンドリックとジュリアエッタで教職を務めた。1901年にアイダホ大学を卒業して学位を取得した後、1901年から1903年にかけてシカゴ大学で政治学の研究員を務めた。弁護士資格を取得し、アイダホ州モスコーで弁護士活動を開始した。1898年から1902年まで州議会議員を務めた。議員時代に、のちに妻となるウィンフレッド・E・ハートリーに出会う。ハートリーはネブラスカ出身で、ボイシの学校の教員を務めていた。1904年に結婚して娘をもうけたが、1908年に夭折した[3]。
フレンチは1902年に27歳の若さで連邦下院議員に当選した。選挙区改編や落選を経験したものの、通算13期26年間の議員在職年数はアイダホ州選出の下院議員として最長。次点は12期連続当選中の現職議員マイク・シンプソン(アイダホ州2区)である。
1930年選挙で民主党のコンプトン・ホワイト・シニアに敗れた。その後、1932年選挙と1934年選挙でもホワイトに挑んだが、いずれも敗れている。その後、1935年から1947年までオハイオ州オックスフォードにあるマイアミ大学の教授を務めた。1953年に白血病と診断され、翌年オハイオ州ハミルトン郡で死去した[3][4]。
年 | 民主党 | 票数 | 得票率 | 共和党 | 票数 | 得票率 | 第3党 | 政党 | 票数 | 得票率 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1918年 | L・I・パーセル | 15,672 | 36.7% | バートン・フレンチ | 27,084 | 63.3% | ||||||
1920年 | ネル・クリューゲル・イリオン | 15,218 | 26.0% | バートン・フレンチ | 34,654 | 59.3% | Riley Rice | 無所属 | 8,605 | 14.7% | ||
1922年 | ジョージ・ウォーター | 13,772 | 26.7% | バートン・フレンチ | 24,167 | 46.8% | W.W. Deal | 進歩党 | 13,673 | 26.5% | ||
1924年 | ペリー・ミッチェル | 20,234 | 37.5% | バートン・フレンチ | 33,347 | 61.8% | Roy Rabbit | アメリカ社会党 | 340 | 0.6% | ||
1926年 | L・L・バーテンショー | 15,903 | 33.7% | バートン・フレンチ | 31,250 | 66.3% | ||||||
1928年 | ジョー・タイラー | 19,064 | 30.0% | バートン・フレンチ | 43,770 | 68.9% | Gust Nelson | アメリカ社会党 | 677 | 1.1% | ||
1930年 | コンプトン・ホワイト | 18,657 | 35.1% | バートン・フレンチ | 34,527 | 64.9% | ||||||
1932年 | コンプトン・ホワイト | 42,784 | 54.9% | バートン・フレンチ | 32,545 | 41.8% | A. Cornell | 自由党 | 2,614 | 3.4% | ||
1934年 | コンプトン・ホワイト | 42,323 | 62.0% | バートン・フレンチ | 25,969 | 38.0% |
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- ^ “Mrs. B.L. French passes at Moscow”. Lewiston Morning Tribune: p. 2. (February 1, 1934)
- ^ “Biography of Burton Lee French”. University of Idaho Library March 11, 2013閲覧。
- ^ a b “Biography of Burton Lee French”. University of Idaho Library March 11, 2013閲覧。
- ^ “Burton French is taken by death”. Spokane Daily Chronicle. Associated Press: p. 6. (September 13, 1954)
外部リンク
[編集]- United States Congress. "バートン・フレンチ (id: F000375)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- University of Idaho Library – Burton Lee French (1875-1954) papers, 1890-1954
- Political Graveyard – Burton L. French
- バートン・フレンチ - Find a Grave
アメリカ合衆国下院 | ||
---|---|---|
先代 トマス・グレン |
アイダホ州全州選挙区 選出議員 第6代:1903年3月4日-1909年3月3日 |
次代 トマス・レイ・ハマー |
先代 トマス・レイ・ハマー |
アイダホ州全州選挙区 選出議員 第8代:1911年3月4日-1915年3月3日 同職:アディソン・スミス (1913年以降) |
次代 ロバート・M・マクラッケン |
先代 ロバート・M・マクラッケン |
アイダホ州全州選挙区 選出議員 第10代:1917年3月4日-1919年3月3日 同職:アディソン・スミス |
選挙区廃止 |
新設 | アイダホ州第1選挙区 選出議員 初代:1919年3月4日-1933年3月3日 |
次代 コンプトン・ホワイト・シニア |