バートリ・ジェルジ
バートリ・ジェルジ Báthory György | |
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バートリ家の紋章 | |
全名 |
エチェディ=バートリ・ジェルジ6世 ハンガリー語:Ⅵ.Ecsedi Báthory György |
死去 |
1570年 ハンガリー王国、ボルショド県、チチヴァーッラ城 |
配偶者 | バートリ・アンナ |
子女 |
イシュトヴァーン エルジェーベト ゾフィア クララ |
家名 | バートリ=エチェド家 |
父親 | エチェディ=バートリ・アンドラーシュ4世 |
母親 | ロズゴニ・カタリン |
役職 | ハンガリー王国軍人 |
エチェディ=バートリ・ジェルジ6世、(マジャル語:Ⅵ.Ecsedi Báthory György ,? - 1570年)は、アンドラーシュ4世の息子で、エチェド(現サボルチ・サトマール・ベレグ県マーテーサルカイ地区(ハンガリー語版)ナジエチェド(ハンガリー語版))系ハプスブルグ家統治下時代のハンガリー王国で多くの領地を所領していた貴族。ハンガリー農民戦争時[1]のトランシルヴァニア、セーケイフォールド(ハンガリー語版)の軍人。
ジェルジの名はバートリ家の家名を冠した地所、ニルバートル(ハンガリー語版)に由来する。
生涯
[編集]正確な生年月日は不明(一説では1534年)だが、ジェルジの父エチェディ=バートリ・イシュトヴァーン4世はハンガリー王室主要財務長官(ハンガリー語)にしてサトマール(現ルーマニア領サトゥ・マーレ)守衛長であり、1521年よりナーンドルフェヘールヴァール(現セルビアの首都ベオグラード)総督を任じられていた。
アバウーイ県(ハンガリー語版)ロズゴニ(ハンガリー語版)(現スロバキア、コシツェ県)の貴族(ハンガリー語版)でロズゴニ家(ハンガリー語)出身の母ロズゴニ・カタリンは、ロズゴニ・イシュトヴァーンの娘である。ジェルジは1552年にハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世と同盟を結んでいた。
1526年にハンガリー王ラヨシュ2世がモハーチの戦いで戦死し、ハンガリー王位は空位となり、その後にフェルディナンド1世はハンガリー王フェルディナーンド1世として王位を主張、同時にハンガリー貴族サポヤイ・ヤーノシュも王位を主張し対立王ヤーノシュ1世となり、その遺児ヤーノシュ・ジグモンドは対立王ヤーノシュ2世として選出されている。
ハンガリー貴族サポヤイ家の対立王父子はハンガリー王候補に選出されたものの正式に戴冠しておらず、既に皇帝であったフェルディナンド1世の王位主張の方が優勢であった。
この複雑な状況に直面したバートリ・ジェルジは、結局対立王ヤーノシュ・ジグモンドに追従し、1556年にはヴァーラドト(現ルーマニア領オラデア)を包囲した。ジェルジはこの裏切りによりフェルディナンド1世からブジャク城を剥奪された。
しかし、その10年後1565年、ジェルジは故フェルディナント1世の息子でハンガリー王の称号も持つ神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と同盟を結び、エルデージ城を包囲。弟のアンドラーシュ・バートリ(国家判事)(ハンガリー語版)も包囲に加わった。ジェルジは神聖ローマ帝国総司令官のホーアー・ランズベルク男爵ラツァルス・フォン・シュヴェンディ(ドイツ語版)と取引し、金銭とその他の副産物をバートリに与えることで合意し、バートリ家はボルショド県(ハンガリー語版)のチチヴァーッラ城に居城を移した。
その後は軍務から退き、1570年に死去した。
妻子
[編集]彼の妻は親族であるソムリヨ(ハンガリー語)系バートリ家のトランシルヴァニア候(ヴォイヴォダ)ショムヨーイ=バートリ・イシュトヴァーン8世とその妻テレグディ・カタリンの娘バートリ・アンナ(? - 1570年)である。アンナはポーランド王及びトランシルヴァニア公ショムヨーイ=バートリ・イシュトヴァーンとトランシルヴァニア候ショムヨーイ=バートリ・クリシュトフ(英語版)の姉妹にあたる。
二人の結婚は、エチュドとソムリヨのバートリ家を統合した。アンナ・バートリは過去に2度未亡人になったことがある。
アンナの初婚の夫(1539年~)はクラスナ=ソルノキの廷吏長ドラーグッフィ・ガスパル(1516年 - 1545年)(ハンガリー語版)、2人目の夫は宗教改革の偉大な支持者であったドルゲト・アンタル(1548年没)であった[2]。
1550年頃にアンナは3人目の夫エチェディ=バートリ・ジェルジと結婚した。ジェルジはアンナの初婚の婚家であったドラーグッフィ家(ハンガリー語)からの寡婦遺産を(子女が皆早世したため)相続し、妻と共にカルヴァン派に改宗し、前夫ドルゲト・アンタルと同様に宗教改革の支持者となった。
アンナとの結婚により4子が生まれた。
- イシュトヴァーン(ハンガリー語版)(1555年 - 1605年)、ショモジュ、サボルチュ、サトマールの廷吏長であり判事。歴史家イシュトヴァーンッフィ・ミクローシュ(ハンガリー語)によれば、ボチカイ・イシュトヴァーンと同盟していた。1605年7月25日、50歳で死去。後継者は生まれず、バートリ=エチェド家の男系は絶える。
- エルジェーベト (1560年 – 1614年), ナーダシュディ・フェレンツ2世の妻
- ゾフィア - フィジェティ・アンドラーシュの妻
- クララ - ヴァルダイ・ミハーイの妻
注釈
[編集]- ^ “Der Freiheitskampf der Szekler und der Bauernkrieg György Székelys”. Arcanum Adatbázis Kft. 2023年1月19日閲覧。
- ^ “Drugeth család. (Gereni és homonnai †).”. Arcanum Adatbázis Kft.. 2021年7月3日閲覧。