コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

バルセグ・カナチヤン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バルセグ・カナチヤン
Բարսեղ Կանաչեան
基本情報
生誕 (1885-04-17) 1885年4月17日
オスマン帝国の旗 オスマン帝国、ロドスト(現テキルダー
死没 (1967-05-21) 1967年5月21日(82歳没)
レバノンの旗 レバノンベイルート
職業 作曲家、指揮者、社会活動家

バルセグ・カナチヤン、またはパルセグ・ガナチアンアルメニア語: Բարսեղ Կանաչեան1885年4月17日1967年5月21日)はアルメニア人の作曲家、指揮者、及び社会活動家[1]アルメニアの国歌Մեր հայրենիք(我が祖国)」の編曲者として著名である。

人物

[編集]

1885年4月17日オスマン帝国、ロドスト(現テキルダー)に靴屋の息子[要出典]として生まれる[2]1888年、家族とともにコンスタンティノープル(現イスタンブール)に引越し、同県に所在するGedikpaşaトルコ語版アルメニア人学校にて初等教育を受ける。その後、ハミディイェ虐殺英語版に伴いブルガリアへの移住を余儀なくされたため、スリヴェンを経てヴァルナへと転居する。現地で音楽理論を学び、ナタン・アミルハニャンアルメニア語版氏の下バイオリンと指揮の教育を受ける。1903年ブカレストでピアノと和声学を学んだのち、1908年にはコンスタンティノープルに帰郷して「クナル(Քնարリラの意)」吹奏楽団を結成する。その後の1910年12月コミタス英語版司祭との出会いが人生の転機となる。和声学と指揮の教育を受けていた最中に「グサン(Գուսան)」合唱団も設立する[要出典]

1919年、300人もの歌手や音楽家と共に、コミタス司祭とその作品に贈るコンサートを開催した。1920年よりパリにて音楽教育を続け、1922年からは指揮者として、アルメニア人のディアスポラの様々な場所で活動した[要出典]

音楽教師として、当時名門のメルコニア教育研究所英語版1933年からはベイルートのNeshan Palandjian大学に勤めており、1928年に当施設のあったキプロスニコシアに移住している。1936年には「グサン(Գուսան)」合唱団を設立し、彼自ら指揮と運営を行う。活動は、ベイルートで彼のもと1961年まで続けられた。初演はベイルート・アメリカン大学記念館にて行われ、70人の歌手が参加した。レバノンシリア、およびエジプトにて数多くの公演を行い、その曲はアルメニアの国民歌に加え、民族音楽、宗教音楽にも及び、しばしばアラビア語クルド語等の他言語でも歌われた。また、同じく1936年には、アルメニア人の間でのプロジェクトの振興と音楽への関心を広げるために、音楽協会「Գուսան երաժշտասիրաց միութիւն」が設立された[要出典]

レバノン政府は、アルメニア人とレバノン人との友好に寄与したとして杉勲章英語版を授与した。フランス政府からも教育功労章を受章している[要出典]

1967年5月21日レバノンベイルートにて没す。アルメニア文化協会「Hamazkayin」は、彼の名を冠した芸術学会をレバノンに設立している[要出典]

脚注

[編集]
  1. ^ Հայկական սովետական համայնագիտարան [Soviet Armenian Encyclopedia] (in Armenian). 5. Yerevan: Armenian Encyclopedia. (1979). p. 235 
  2. ^ Atayan, Robert (1968). B. Kanachyan: Menerger, Khmperker. Yerevan: Hayastan. p. 3