バグラト1世 (イメレティ王)
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バグラト1世 ბაგრატ I | |
---|---|
イメレティ王 | |
先代 | ミケリ |
次代 | アレクサンドレ1世 |
出生 | 14世紀 |
死亡 |
1372年 クタイシ |
王室 | バグラティオニ家 |
父親 | ミケリ |
子女 |
バグラト1世(バグラト1せい、グルジア語: ბაგრატ I、グルジア語ラテン翻字: Bagrat I、1372年没)は、イメレティ王国の王(在位期間1329年–1330年)。1330年よりギオルギ5世の封臣たるエリスタヴィとなった。
生涯
[編集]バグラトはイメレティ王ミケリの唯一の王子であった。ミケリは1329年に死去したが、このときバグラトはまだ未成年であったことから、「小さい」を意味する「ムツィレ」(グルジア語: მცირე、グルジア語ラテン翻字: Mtsire)をつけてバグラト・ムツィレ(グルジア語: ბაგრატ მცირე、グルジア語ラテン翻字: Bagrat Mtsire、「小さいバグラト」の意)と渾名がついた。この当時、領内は貴族間の派閥争いで分裂状態にあったため、バグラトは首都クタイシに留まることを余儀なくされた。
1330年、ジョージア東部を復活させた光輝王ギオルギ5世はこの状況を利用し、バグラトの血縁者としてリヒ山脈を越えてイメレティに入った。ギオルギ5世は多くのイメレティ人に歓迎され、持続的な暴力と無政府状態は収束した。バグラトはギオルギ5世との和解を余儀なくされ、イメレティはサカルトヴェロ王国の付庸国となった。イメレティをギオルギ5世が勝ち取ったことにより、ジョージアの完全性が回復することとなった。以降、バグラトはイメレティのエリスタヴィ(公爵)の座に就き、ギオルギ5世の保護監督の下、ショラパニに居住した[1][2][3]。
家族
[編集]1358年、バグラトはダヴィト4世の同意の下、サムツヘ公国のジャケリ家クヴァルクヴァレ1世の娘と結婚し、息子3人をもうけた[1]。
参考文献
[編集]- ჩხატარაიშვილი ქ., カルトリ・ソビエト百科事典, 第2巻, 128頁, トビリシ, 1977年.
注釈
[編集]- ^ a b Bagrationi, Vakhushti (1976). Nakashidze, N.T.. ed (Russian). [History of the Kingdom of Georgia]. Tbilisi: Metsniereba. p. 41. https://dspace.nplg.gov.ge/handle/1234/3067
- ^ Rayfield, Donald (2012). Edge of Empires: A History of Georgia. London: Reaktion Books. p. 140. ISBN 1780230303
- ^ Lang, David Marshall (1955). “Georgia in the Reign of Giorgi the Brilliant (1314–1346)”. Bulletin of the School of Oriental and African Studies, University of London 17 (1): 87. doi:10.1017/s0041977x00106354. JSTOR 609230.