ワジム・バカーチン
ワジム・バカーチン Вадим Бакатин | |
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ワジム・バカーチン(1988年11月10日) | |
生年月日 | 1937年11月6日 |
出生地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ケメロヴォ州キーロフスク |
没年月日 | 2022年7月31日(84歳没) |
出身校 | ノヴォシビルスク建築技術大学 |
所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
在任期間 | 1991年8月23日 - 10月25日 |
国民経済管理委員会委員長 | イワン・シラーエフ |
在任期間 | 1988年10月20日 - 1990年12月1日 |
閣僚会議議長 | ニコライ・ルイシコフ |
共和国間保安庁議長 | |
在任期間 | 1991年10月25日 - 1992年1月15日 |
ワジム・ヴィクトロヴィチ・バカーチン(ロシア語: Вади́м Ви́кторович Бака́тин、ラテン文字転写の例:Vadim Viktorovich Bakatin、1937年11月6日 - 2022年7月31日[1])は、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家。最後のKGB(ソ連国家保安委員会)議長。穏健改革派としてミハイル・ゴルバチョフを支えた。
来歴
[編集]ケメロヴォ州キーロフスク生まれ。ノヴォシビルスク建築技術大学卒。1960年から建設企業に勤務し、主任技師、監督などを務める。この間の1964年ソ連共産党に入党する。1971年に住宅建設企業合同主任技師となる。1973年に地元のケメロヴォ市共産党第二書記に選出されたことを皮切りに、1977年ケメロヴォ州党書記、1985年共産党中央監査委員、キーロフ州党第一書記を経て、1986年党中央委員に選出された。1987年ケメロヴォ州党第一書記となる。
1988年ゴルバチョフによって内務大臣に任命される。穏健改革派としてゴルバチョフの路線に従い国内で先鋭化してきた民族問題に当たるが、より強硬な手段でソ連を維持すべきと主張する保守派からの突き上げを喰らい、ゴルバチョフが保守派に譲歩する中で1990年に内相を辞任。後任の内相に就任したのは保守派として名高いラトビア共産党第一書記のボリス・プーゴであり、第一次官にはアフガニスタン戦争の英雄でこれも保守派のボリス・グロモフ将軍であった。同年8月新設された大統領評議会メンバーに選ばれる。1991年ロシア大統領選挙では、ボリス・エリツィンの当選を嫌ったゴルバチョフの命を受け立候補するが、エリツィン、ニコライ・ルイシコフ元首相らの有力候補はおろか、当時泡沫候補扱いされたウラジーミル・ジリノフスキーにも敗北し立候補者5人中、得票率5パーセントと最低であった。
1991年8月にソ連8月クーデターが失敗すると国家非常事態委員会のメンバーとして、クーデターの中心であったウラジーミル・クリュチコフに代わり最後のKGB議長に就任し、KGBを解体した。バカーチンはクーデター後もゴルバチョフを支え続けた一人であった。
ソ連崩壊後
[編集]ソビエト連邦の崩壊後の1991年から1992年までCIS(独立国家共同体)に設けられた共和国間保安庁の初代議長を務める。1992年政治・国際問題に関する国際「改革」基金副総裁兼院長に就任。
2022年7月31日に死去。84歳没。
著書
[編集]- 『最後のKGB議長』佐藤利郎訳、講談社、1992年2月。
脚注
[編集]- ^ “В Москве умер последний председатель КГБ СССР Вадим Бакатин”. Российская газета. 2022年8月1日閲覧。
外部リンク
[編集]公職 | ||
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先代 アレクサンドル・ヴラソフ |
ソビエト連邦内相 第8代:1988年10月20日 - 1990年12月1日 |
次代 ボリス・プーゴ |
先代 レオニード・シェバルシン 臨時代行 |
ソビエト連邦 国家保安委員会議長 第8代:1991年8月23日 - 10月25日 |
次代 (解体) |