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ハーヴェイ・ガイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハーヴェイ・ヒューゴー・ガイ
Harvey Hugo Guy
個人情報
出生 (1870-11-09) 1870年11月9日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アメリカ合衆国カンザス州
死去 (1936-01-30) 1936年1月30日(65歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アメリカ合衆国カリフォルニア州
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
配偶者 マーサ・アンドリュース(Martha Andrews)
職業 宣教師教育者
出身校 ドレーク大学イェール大学
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ハーヴェイ・ヒューゴー・ガイ(Harvey Hugo Guy、1870年11月9日-1936年1月30日)は、ディサイプルス(基督教会)から派遣された宣教師聖学院の創設者の一人。

生涯

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初期

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1870年にアメリカ合衆国のカンザス州で生まれる。アイオワ州のドレーク大学()卒業後にマーサ・アンドリュース(Martha Andrews)と結婚する。 [1]

来日

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1893年秋に妻マーサと共に、来日し、先輩の宣教師を助けて、関口教会を創立、聖書学校の創設、本郷教会の再建などに取り組んだ。[1]

1900年(明治33年)一時帰国中に、イエール大学で学んで哲学博士号を取得する。その後、1903年に来日する。石川角次郎に要請して、石川と共に東京府駒込に聖学院神学校(現・聖学院中学校・高等学校)を設立し[2]、日本人による伝道者の育成を目指した。[3]

聖学院神学校、英語夜学校、中学校などを開校したが、妻の病気のために1907年(明治40年)に帰国する。帰国後は、カリフォルニア州に住んで太平洋神学校で教えた。[1]

再来日

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1927年(昭和2年)に講演旅行で再来日、また、1930年(昭和5年)から1933年(昭和8年)まで社会宗教調査の団長として短期間日本に滞在する。[1]

人物

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  • 流暢な日本語を話し、和漢の古典にも通じて、説教者としても有名であった。[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e 秋山 1988, pp. 276)
  2. ^ 小田 1988, pp. 100)
  3. ^ 在日期間は短かったが日本のディサイプルス(基督教会)の伝道、教育に大きな足跡を残した。(秋山 1988, pp. 276)

参考文献

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  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年。ISBN 4-7642-4006-8 
    • 秋山操「ガイ」『日本キリスト教歴史大事典』1988年、276頁。 
    • 小田信人「石川角次郎」『日本キリスト教歴史大事典』1988年、100-101頁。 
  • 守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年。ISBN 978-4-264-02638-9 

関連項目

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