ハージアリー・ラズマーラー
ハージアリー・ラズマーラー(ペルシア語: حاجیعلی رزمآرا, ラテン文字転写: Ḥājjī ʻAlī Razmārā; 仏: Hadji Ali Razmara; 1901年3月30日[1] - 1951年3月7日)は、イランの軍人、政治家。1950年6月にレザー・シャーにより首相に任命され、在職中の1951年3月にイスラーム主義者のテロにより殺害された[2]。著作に、自身の半生をつづった回顧録がある[2]。
生涯
[編集]1901年にテヘランで生まれた[2]。父は軍人、母はガージャール家の子女であった[2]。ラズマーラー自身の弁によると、青い目と細面は母親譲りだという[2]。両親がラズマーラーに付ける予定だった名前は「アリー」であったが、彼がイスラーム教の犠牲祭の頃に生まれたため「ハージアリー」と呼ばれることになった[2]。「ハージ(ハーッジー)」は本来ならばムスリムの義務、大巡礼を果たした者に与えられる称号であるが、当時のイランでは、犠牲祭(ゴルバーン,イードル・アドハー)の時期に生まれた赤子の名前にも付加して、その誕生を祝福する習わしがあった[2]。ラズマーラーは、イラン暦1280年ファルヴァルディーン月10日(西暦1901年3月30日,ヒジュラ暦1318年ズルヒッジャ月9日)に誕生した[1]。
フランスのサン・シール陸軍士官学校を卒業し、イラン帝国軍に将校として務める。
1950年、皇帝より首相に任命されると、地方分権や地方議会の設置などの先進的な改革を行い、ハリー・トルーマン(アメリカ合衆国大統領)から発展途上国を支援するポイント・フォー・プログラムの実施を取り付けた。
しかし、公務員の削減や政府高官の解雇を推し進めたことなどにより、保守派やイラン共産党からの反発に遭う。また、積極的にアングロ・イラン石油に協力的で、イラン側が極端に不利な合意を結んだ[3]。
在職中の1951年3月7日、シャーモスクにて暗殺される。享年49歳。
出典
[編集]- ^ a b Iranshahr, Mar 4, 2016
- ^ a b c d e f g Abbas Milani (2008). Eminent Persians: The Men and Women Who Made Modern Iran, 1941-1979, Volumes One and Two. Syracuse, NY: Syracuse University Press. pp. 483–489. ISBN 978-0-8156-0907-0
- ^ Kinzer, Stephen. All The Shah's Men (Hoboken, NJ: John Wiley & Sons, Inc., 2003. p. 66