ハンス・ア・ダンマーク (1518-1532)
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ハンス・ア・ダンマーク Hans af Danmark | |
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ハンス王子、下画より抜粋 | |
出生 |
1518年2月21日 デンマーク、コペンハーゲン |
死去 |
1532年8月11日(14歳没) 神聖ローマ帝国、レーゲンスブルク |
埋葬 |
ネーデルラント17州、ヘント、聖ピーテル修道院 1883年 デンマーク、オーデンセ、聖クヌーズ修道院 |
家名 | オルデンブルク家 |
父親 | デンマーク王クリスチャン2世 |
母親 | イサベル・デ・アウストリア |
ハンス・ア・ダンマーク(Hans af Danmark, 1518年2月21日 - 1532年8月11日)は、デンマーク王クリスチャン2世と王妃イサベラ・ア・ブアグンの間の長男。
生涯
[編集]1523年、父が大叔父のフレゼリク1世によって王位を奪われると、ハンスとその家族は母イサベラの実家のある低地地方のデ・リールで困窮した亡命生活を送ることになった。父は義兄の神聖ローマ皇帝カール5世の軍事援助を得て、王位を簒奪者から奪回することを夢見ていた。その時は訪れることはなく、一家は失意のうちにデ・リールから南方のブラバント公領に居を移した。
1532年の年明け、クリスチャン2世はオスロに赴き、ノルウェーの議会に息子ハンスを正統な王位継承者と認めさせ、息子を王位に就けようと画策した。一方、伯父の皇帝カール5世は、ハンスをレーゲンスブルクに連れて行った。ハンスは間違いなく、ハプスブルク家の庇護下にデンマーク王位請求者として政治的役割を果たすことを期待されていたが、同年の夏にレーゲンスブルクの皇帝の宿所で亡くなった。
14歳で夭折したハンスの遺骸は、ヘントの聖ピーテル修道院に埋葬された。しかし1883年になって遺骸は掘り起こされて故国デンマークに移送され、オーデンセの聖クヌーズ修道院に改葬された[1]。ハンスは賢く、一国を治めるに足る能力を持っていた王子だったと言われている[2]。
引用
[編集]- ^ Bricka 1887, p. 567.
- ^ Bricka 1887, p. 566.
参考文献
[編集]- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
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は必須です。 (説明) - Bricka, Carl Frederik (1887). Dansk biografisk leksikon. Copenhagen: Gyldendal
外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、ハンス・ア・ダンマーク (1518-1532)に関するカテゴリがあります。