ハワード・ロバーツ (彫刻家)
ハワード・ロバーツ Howard Roberts | |
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ペンシルベニア美術アカデミーにあるハワード・ロバーツ作『ヒュパティア』 | |
生誕 |
1843年4月8日 アメリカ合衆国、フィラデルフィア |
死没 |
1900年4月19日 フランス、パリ |
ハワード・ロバーツ(Howard Roberts、1843年4月8日 - 1900年4月19日)は、アメリカ合衆国の彫刻家である。
略歴
[編集]フィラデルフィアの裕福な家族に生まれた。ペンシルベニア美術アカデミーでフランス生まれの彫刻家のベイリー(Joseph Alxis Bailly)に学んだ。有名な画家のトマス・エイキンズと同時期に学び、エイキンズと共に1866年にフランスに留学し、パリ国立高等美術学校で彫刻家のオーギュスト・デュモンの元で修行した。裕福な境遇のロバーツをエイキンズは快く思っていなかったとされる[1] 。ロバーツはその後彫刻家のシャルル・グメリ(Charles Guméry: 1827–1871)に学んだ。
1871年にペンシルベニア美術アカデミーの新校舎のデザイン・コンクールに優勝した建築家のフランク・ファーネス(Frank Furness: 1839-1912)は設計にあたって、ロバーツとエイキンズからスタジオに対するアドヴァイスを求めた[2]。
1872年のペンシルベニア美術アカデミーの展覧会にナサニエル・ホーソーンの1850年の小説「緋文字」の主人公、ヘスター・プリンを題材にした作品を出展した[3]。1873年に、古代ギリシャの女性哲学者、ヒュパティアの原型とともにパリに再び渡り、パリで大理石像を制作した。(ヒュパティアの生涯は、1853年にチャールズ・キングズリーが小説にしていた。)パリでは「La Première Pose(初めてのポーズ)」と題した若い女性の裸像を制作し、この作品を1876年のフィラデルフィア万国博覧会に出展し[4]、高い評価を得た[5]。
その他の作品には国立彫像ホール・コレクションに展示する彫像を選ぶ、マサチューセッツ州のコンペで選ばれて、蒸気船の実験と実用化に成功したロバート・フルトンの彫像を制作した。カジュアルな服装で腕まくりをして、船の模型を見つめているフルトンの像は1883年から国立彫像ホール・コレクションで展示されている。
1894年にフィラデルフィアのスタジオを閉鎖しパリに移り、1900年にパリで亡くなった。1905年にペンシルバニア美術アカデミーで回顧展が開催された。
1876年に結婚し、2人の子供が生まれた。孫のハワード・ラドクリフ・ロバーツ・ジュニア(Howard Radclyffe Roberts Jr. : 1906–1982)は昆虫学者として知られている。
参考文献
[編集]- ^ TE to Benjamin Eakins, 13 Oct. 1866, The Paris Letters of Thomas Eakins, William Innes Homer, ed. (Princeton University Press, 2009), p. 40.
- ^ Earl Shinn, "Fine Arts: The Pennsylvania Academy", The Nation [Magazine], vol. 22 (May 4, 1876), pp. 297-98, as quoted in Sellin, p. 37.
- ^ Hester Prynne and Baby Pearl, from Library Company of Philadelphia.
- ^ La Premiere Pose, from Flickr.
- ^ Matthew Baigell, Dictionary of American Art, (New York: Harper & Row, 1979), p. 304.