ハリー・チャンドラー
ハリー・チャンドラー(Harry Chandler、1864年5月17日 – 1944年9月23日)は、アメリカ合衆国の新聞経営者。
生涯
[編集]チャンドラーはニューハンプシャー州ランダフ(Landaff)に生まれ、ダートマス大学に学んだ。あるとき、大学生だったチャンドラーは、馬鹿げた挑戦として、冬場の凍結したデンプンの大きなタンクに飛び込んだが、それがきっかけで肺炎になってしまった。チャンドラーは大学から退学し、転地療養のためにカリフォルニア州ロサンゼルスに移住した。
ロサンゼルスでチャンドラーは、果樹園で働き始めたが、その傍ら小規模な配送事業を起業した。この事業は、やがて市内の朝刊の配達を数多く手がけるようになり、これをきっかけにチャンドラーは『ロサンゼルス・タイムズ』紙の発行人であったハリソン・グレイ・オーティス(Harrison Gray Otis)の知遇を得た。オーティスはこの起業家精神に満ちた青年を気に入り、チャンドラーを『ロサンゼルス・タイムズ』紙の総支配人に抜擢した。チャンドラーの最初の妻は、出産の折に死亡していたが、やがてチャンドラーはオーティスの娘マリアン・オーティス(Marian Otis)と結婚した。1917年にオーティスが亡くなると、チャンドラーは『ロサンゼルス・タイムズ』紙の発行人として経営を掌握し、同紙をアメリカ合衆国西部で最高の新聞に変革した。チャンドラー指揮下の1920年代の絶頂期に、『ロサンゼルス・タイムズ』は3年連続して、全米のどの新聞よりも多い、最高の広告出稿を広告紙面と案内広告の量で達成した。
しかし、限りなく豊かだったチャンドラーの活力と夢は、その大部分が都市ロサンゼルスの改造に向けられていた。チャンドラーは、住宅コミュニティを創出し、大規模な土地投機を行なったチャンドラーは、20世紀前半のロサンゼルスにおいて、しばしば議論の的となる有名な市民であった。チャンドラーが直接的に資金を提供した事業には、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム(および、1932年夏季五輪のロサンゼルスへの誘致)、バルチモア・ホテル(Biltmore Hotel)[1]、ダグラス・エアクラフト、ハリウッド・ボウル、アンバサダー・ホテル、カリフォルニア工科大学、南カリフォルニア自動車クラブ(Auto Club of Southern California)、ラジオ局 KHJ、トランス・ワールド航空、サンペドロ港湾(San Pedro Harbor)、ロサンゼルス・アスレチック・クラブ(Los Angeles Athletic Club)、カリフォルニア・クラブ(California Club)、パシフィック電鉄、ロサンゼルス芸術協会(Los Angeles Art Association)、サンタアニタパーク競馬場、ロサンゼルス汽船( Los Angeles Steamship Company)、ヨセミテ国立公園のアワニー・ホテル(Ahwahnee Hotel)、さらには、ロサンゼルス都心部におけるオルヴェラ・ストリート(Olvera Street)やチャイナタウン(Chinatown)の再開発などがある。
不動産投資者であったチャンドラーは、開発に当たったシンジケート(企業連合)のパートナーとして、サンフェルナンド・バレーの大部分の開発や、ハリウッドの丘陵部(ハリウッドランド)の開発にも関わっていた。ハリウッドサインは、もともとはこの開発の宣伝のために設置されたものである。チャンドラーはほかにも、マルホランド・ドライブ(Mulholland Drive)、デイナポイントの大部分、南カリフォルニアにある281,000エーカー(1,140 km²)の牧場テジョン・ランチ、ニューメキシコ州にある340,000エーカー(1,400 km²)の牧場ヴァーミジョ・ランチ(Vermejo Park Ranch)、メキシコバハ・カリフォルニア州にある832,000エーカー(3,370 km²)の牧場C&Mランチ(C&M ranch)の開発に関わっていた。こうした投資の結果、最盛期のチャンドラーは、アメリカ合衆国における最大の土地所有者となり、同時に、石油、海運、金融などカリフォルニア州の35社の役員を務めていた。
チャンドラーは、『ロサンゼルス・タイムズ』紙の社長時代から、優生学の信奉者として知られており、イズラ・ゴズニー(Ezra Gosney)が主宰した人類改良財団(Human Betterment Foundation)の会員であった[2]。
チャンドラーとマリアンの間には8人の子どもが生まれ、長男ノーマン・チャンドラー(Norman Chandler)は、『ロサンゼルス・タイムズ』紙の発行人を引き継いだ。
チャンドラーは、1944年9月23日に心筋梗塞で亡くなった。チャンドラーとマリアンは、サンタ・モニカ大通り(Santa Monica Boulevard)のハリウッド・フォーエヴァー墓地(Hollywood Forever Cemetery)に埋葬されている。その近くには、義父ハリソン・グレイ・オーティスの墓碑もある。
サンフェルナンド・バレーの主要な通りとなっているチャンドラー大通り(Chandler Boulevard)は、ハリー・チャンドラーにちなんで名付けられたものである。
市政
[編集]チャンドラーは、彼の新聞の影響力を利用して、政治的決定を左右させようとすることがあったが、それはうまく行くことも、失敗することもあった。1949年、チャンドラーは影響力を行使して、警察委員サッド・ブラウン(Thad Brown)をロサンゼルス市警察の次期警察長に据えようとした。この試みは、チャンドラーと結んでいたブラウンが、選挙の直前に急死して失敗に終わった。結局、選出されたのは、ウィリアム・パーカー(William Parker)であった[3]。
出典・脚注
[編集]- ^ 現在のMillennium Biltmore Hotelの場所に1923年に建設された、当時、シカゴ以西で最大だったホテル。
- ^ Gosney, E.S. (1929). Twenty-eight Years of Sterilization in California. Pasadena, California: The Human Betterment Foundation. p. 38
- ^ Buntin, John (2009). L.A. Noir. New York: Harmony Books. pp. 419. ISBN 978-0-307-35207-1
参考文献
[編集]- The Powers That Be, David Halberstam, Dell Books, 1986
- Privileged Son: Otis Chandler and the Rise and Fall of the L.A. Times Dynasty, Dennis McDougal, Perseus Publishing, 2001
- The Ancestry of Harry Chandler by Gwendolyn Garland Babcock