ハリ・ラーオ・ホールカル
ハリ・ラーオ・ホールカル Hari Rao Holkar | |
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ホールカル家当主 インドール藩王 | |
ハリ・ラーオ・ホールカル | |
在位 | 1834年 - 1843年 |
戴冠式 | 1834年4月17日 |
別号 | マハーラージャ |
出生 |
1795年 |
死去 |
1843年10月24日 インドール、ラージワーダー |
子女 | カンデー・ラーオ・ホールカル2世(養子) |
家名 | ホールカル家 |
父親 | ヴィトージー・ラーオ・ホールカル |
宗教 | ヒンドゥー教 |
ハリ・ラーオ・ホールカル(Hari Rao Holkar, 1795年 - 1843年10月24日)は、インドのホールカル家の当主、インドール藩王国の君主(在位:1834年 - 1843年)。
生涯
[編集]即位以前
[編集]1795年、ハリ・ラーオはホールカル家のヴィトージー・ラーオ・ホールカルの息子として生まれた[1]。
1801年4月、父ヴィトージー・ラーオ・ホールカルはマラーター王国の宰相バージー・ラーオ2世により、象に踏みつぶさせられて殺害された。
1817年11月には、第三次マラーター戦争のマヒドプルの戦いに参加したが、ここでホールカル家は敗れている。
1819年、ハリ・ラーオはホールカル家の当主位を奪おうと反乱を起こしたが失敗し、マヘーシュワルに投獄された。
擁立と即位
[編集]1833年10月、ホールカル家当主マルハール・ラーオ・ホールカル2世が死亡し、一族のマールターンド・ラーオ・ホールカルが新当主となった[1]。だが、彼はマルハール・ラーオ・ホールカル2世の妃ガウタマ・バーイー・ホールカルとその祖母クリシュナ・バーイー・ホールカルの権力を保持するための道具と思われ、人民や軍隊はこれに反対した。そして、前当主の従兄弟にあたったハリ・ラーオの即位を人々は推した。
こうして、1834年2月2日、ハリ・ラーオは支持者によってマヘーシュワルから解放され、マールターンド・ラーオは廃位された。その後、3月18日にインドールに戻ったのち、ガウタマ・バーイーの養子となり、4月17日には正式に即位した。
不健康と死
[編集]イギリスもこの即位を認めたものの、ハリ・ラーオ・ホールカルが長年の幽閉生活で健康がすぐれていないことから、後継者として養子をとることを常に勧めた。
そのため、ハリ・ラーオは従兄弟の少年カンデー・ラーオ・ホールカルを養子にすることにし、1841年7月2日に正式に養子縁組し[1]、8月30日にイギリス側もこれを認めた。だが、彼はその後どんどん不健康になってゆき、ついには公的生活から完全に引退した。
そして、1843年10月16日にハリ・ラーオは意識不明となり、同月24日にその息を引き取った[1]。