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咸台永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハム・テヨンから転送)
咸台永
함태영
生年月日 (1872-03-25) 1872年3月25日
出生地 李氏朝鮮 全羅道金堤郡
没年月日 (1964-10-24) 1964年10月24日(92歳没)
死没地 大韓民国の旗 韓国 ソウル特別市
所属政党 自由党

在任期間 1952年5月15日 - 1956年5月14日
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咸台永
各種表記
ハングル 함태영
漢字 咸台永
発音: ハム・テヨン
日本語読み: かん だいえい
英語表記: Ham Tae-Young
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咸 台永(ハム・テヨン、同治11年2月17日1872年3月25日) - 1964年10月24日)は、韓国の独立運動家、牧師政治家大韓帝国の法官。韓国第3代副統領(副大統領)、第2代審計院長である。本貫江陵咸氏[1]。号は松岩

生涯

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全羅道金堤郡(現在の全北特別自治道金堤市)に生まれ、父咸遇澤は通政大夫を務めた。青年期に検事を志した。

リベラリストとして信望が厚く、ソウル裁判所の検事をしていた際に独立協会事件を担当し、被告である李商在の無罪を主張した。

韓国併合後はキリスト教を信奉し、洗礼を受けた。三・一独立運動の際、民族代表33人の中の1人として活躍したが逮捕され、懲役3年の判決を受け入獄、これにより従六位を失位した[2]。出獄後に平壌神学校を卒業し、長老派教会の牧師となって、聖職者として歩み、解放後は政界・教育界を活躍の場とした。キリスト教精神が常に心の奥にあったといわれている。

その後、第2代審計院長(1949年-1952年)、1951年韓国神大学校の学長に就任し、1952年には第3代副統領に就任した。1962年に大韓民国の建国者功労者賞を受賞した。1964年に死去し、葬儀は国民葬が行われた[3]

親族

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息子の咸秉春は、1983年に大統領秘書室長として全斗煥大統領の外遊に同行した際、ラングーン事件に巻き込まれて死亡している。

農林部長官の咸仁燮朝鮮語版は孫[4]

脚注

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  1. ^ 함태영(咸台永)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年8月23日閲覧。
  2. ^ 官報 1920年12月4日 一三七頁
  3. ^ 正義세 우려 매 를맞았네 咸台永翁 國民葬嚴修.東亜日報1964年10月30日付3面。韓国言論財団より取得
  4. ^ 강릉함씨 - 디지털김제문화대전”. gimje.grandculture.net. 2023年9月4日閲覧。

関連項目

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参考資料

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  • 木村誠・吉田光男・趙景達・馬渕貞利編集「朝鮮人物辞典」(1995年、大和書房)

 

先代
張沢相
(権限代行)
大韓民国の副大統領
第3代 : 1952年 - 1956年
次代
張勉
先代
明濟世
大韓民国の審計院長
第2代 : 1949年 - 1952年
次代
盧鎭卨