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エルネスト・ハビエル・チェバントン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハビエル・チェバントン
名前
本名 エルネスト・ハビエル・チェバントン・エスピノーサ
Ernesto Javier Chevantón Espinosa
愛称 チェバ、アニマル
ラテン文字 Javier CHEVANTÓN
基本情報
国籍 ウルグアイの旗 ウルグアイ
生年月日 (1980-08-12) 1980年8月12日(44歳)
出身地 フアン・ラカーセスペイン語版
身長 179cm
体重 72kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-2001 ウルグアイの旗 ダヌービオ 57 (49)
2001-2004 イタリアの旗 レッチェ 87 (47)
2004-2006 モナコの旗 モナコ 50 (20)
2006-2010 スペインの旗 セビージャ 34 (8)
2010 イタリアの旗 アタランタ (loan) 12 (2)
2010-2011 イタリアの旗 レッチェ 14 (2)
2011-2012 アルゼンチンの旗 コロン 15 (6)
2012-2013 イタリアの旗 レッチェ 14 (6)
2013 イングランドの旗 QPR 2 (0)
2014 ウルグアイの旗 リベルプール 10 (3)
代表歴2
2001-2008 ウルグアイの旗 ウルグアイ 22 (7)
1. 国内リーグ戦に限る。2014年5月15日現在。
2. 2010年8月31日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エルネスト・ハビエル・チェバントン・エスピノーサErnesto Javier Chevantón Espinoza, 1980年8月12日 - )は、ウルグアイコロニア県出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。現役時代はウルグアイ代表

経歴

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クラブ

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12歳の時、アルバロ・レコバファビアン・カリーニ等を輩出したダヌービオFCの下部組織に入団した。2000年の国内リーグで30試合32得点というゴール数を記録し、様々なクラブの注目を集める。2001年になっても変わらずゴールを量産し続ける彼に数々のオファーが舞い込んだが、彼は最終的にイタリアセリエAUSレッチェを選択し、2001年夏に移籍した。

レッチェに移籍した最初のシーズンでチームは降格の憂き目に遭うが、チェバントン自身は27試合に出場して12ゴールを挙げ、イタリアでもその得点能力が通用することを証明した。クラブがセリエBに落ちた後も残留を選択し、16ゴールを決めて翌シーズンの1部復帰に貢献。1部復帰となった2003-04シーズンは30試合18得点と大活躍し、レッチェの躍進に貢献した。セリエAデビュー戦ではセバスティアン・フレイがパントキックしようとしたボールをカットして初ゴールを決めている。

その活躍を見込まれて、フェルナンド・モリエンテスリュドヴィク・ジュリの後釜を探していたディディエ・デシャン監督率いるフランスリーグ・アンASモナコのオファーを受け、2004年夏に移籍した。UEFAチャンピオンズリーグにも初出場したが、イタリアで見せたような活躍を見せることができず、チームの不振とともにチェバントン自身も膝などに続けて負傷を抱えた。2005-06シーズン途中のデシャン監督の辞任もあり移籍が噂されたが、2006年3月に膝の手術から復帰すると、残りのリーグ戦10試合で8ゴールを決め、最終的には10ゴールをマーク。欧州リーグに移籍してから5シーズン連続で2桁得点を達成した。

2006年夏の移籍市場でスペイン・リーガ・エスパニョーラ(1部)のセビージャFCに移籍。しかし満足な出場機会をえることはできず、1年目は17試合の出場で4得点にとどまり、連続2桁得点が途絶えた。2007-08シーズン、2008-09シーズンはともに8試合の出場に終わり、出場機会を求めて2010年1月にセリエAのアタランタBCレンタル移籍した。同年夏には6シーズン振りにUSレッチェに復帰した。

2011年夏にアルゼンチンCAコロンへ移籍。アキレス腱の故障もあって数か月で退団したものの、2012年7月に再びレッチェへ復帰した。

1シーズンでレッチェとの契約が満了し、2013年9月に3か月の契約でイングランド・フットボールリーグ・チャンピオンシップクイーンズ・パーク・レンジャーズFCに加入した。

クイーンズ・パーク・レンジャーズFCと契約満了後の2014年1月28日、リベルプールFCに加入し、13年ぶりに母国復帰となった[1]

2015年に現役を引退。翌2016年3月31日にはアルバロ・レコバの引退試合にレコバ・フレンズのメンバーとして出場した。

代表

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ウルグアイ代表にも何度か招集されているが、ホルヘ・フォサーティ監督の起用方法などに不満があったためか「彼がウルグアイ代表の指揮を執る限り招集を拒否する」旨の発言を2005年10月に行い、長らく代表から遠ざかった。ウルグアイが2006年ワールドカップの出場権を逃したことでフォサーティ監督が引責辞任したこともあり、2008年9月におよそ3年ぶりにウルグアイ代表に招集された。

関連人物

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脚注

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  1. ^ Qoly.jp (2014年2月3日). “チェバントンがQPRからリヴァプールへ”. 2014年2月3日閲覧。

外部リンク

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