ハインリヒ・テオドール・ヴェーレ
ハインリヒ・テオドール・ヴェーレ Heinrich Theodor Wehle | |
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ヴェーレ作「眠っている羊飼いと羊のいる風景」 | |
生誕 |
1778年3月7日 ザクセン、Mücka |
死没 |
1805年1月1日 バウツェン |
ハインリヒ・テオドール・ヴェーレ(Heinrich Theodor Wehle 、高地ソルブ語の名前: Hendrich Božidar Wjela 、ロシアでの名、Генрих Теодор Веле、 Genrich Teodor Vele、1778年3月7日 - 1805年1月1日)はドイツの風景画家、版画家である。
略歴
[編集]現在のザクセン州のMückaに生まれた。父親は牧師で、母親は役人の娘だった。家族と1782年に、5㎞程離れたKrebaに移り、オーバーラウジッツ地方(Oberlausitz)の自然の中で育った。オーバーラウジッツ地方の風景は初期のヴェーラーの絵のテーマになった。
1790年頃からゲルリッツの絵画学校と高校で、風景画家のクリストフ・ナーテ( Christoph Nathe :1753-1806)に学んだ後、1793年からドレスデンの美術学校でジョバンニ・バティスタ・カサノヴァ(Giovanni Battista Casanova: 1730-1795)に歴史画を学び、ヨハン・クリスティアン・クレンゲル(Johann Christian Klengel: 1751-1824)に風景画を学び、版画をアドリアン・ツィングに学んだ。美術アカデミーでも風景画家としての技量を認められ、1799年にデッサウの美術出版協会(Chalkographische Gesellschaft zu Dessau)で版画の下絵を描く仕事に雇われた。
乗馬が好きで、絵を売った金は、乗馬のための馬を借りる費用に費やしていた。1801年にロシア皇帝アレクサンドル1世に招かれて、ロシアを訪れ、フランス革命を逃れてロシア科学アカデミーの総裁になっていた、考古学者のショワズール=グーフィエ(Marie-Gabriel-Florent-Auguste de Choiseul-Gouffier) を訪ねた。ムシン=プーシキン(Apollo Mussin-Pushkin)が率いる1802年からのアジア探検に画家として参加することを依頼された。2月にジョージア、コーカサスに到着し、探検隊はペルシャへ探検を続けたが、ヴェーレは健康を害し、探検隊を離れ、ドイツに戻ることを選択したが、1805年の1月1日、ザクセンのバウツェンで26歳で亡くなった。
参考文献
[編集]- Georg Kaspar Nagler: Neues allgemeines Künstler-Lexicon, 1851 (Digitalisat mit Werksverzeichnis)
- Hermann Arthur Lier (1910), "Wehle, Heinrich Theodor", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), 55, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 358–359
- Alfred Krautz: Die abenteuerliche Reise des Malers Heinrich Theodor Wehle von der Spree bis zum Kaukasus, Domowina-Verlag, Bautzen 1992, ISBN 978-3-7420-0514-4
- Christina Bogusz, Marius Winzeler: Im Reich der schönen, wilden Natur. Der Landschaftszeichner Heinrich Theodor Wehle 1778–1805. {exhibition catalogue), Sorbischen Museum Bautzen, Anhaltischen Gemäldegalerie Dessau and the Kulturhistorischen Museum Görlitz, Domowina-Verlag, Bautzen 2005, ISBN 978-3-7420-2026-0