ハインリヒ・シュミット
エルンスト・ハインリヒ・シュミット(Ernst Heinrich Schmidt, 1912年3月27日 - 2000年11月28日)は、ドイツの医師、軍人。ナチス・ドイツの時代、親衛隊(SS)の軍医として収容所付医師などを務めた。SS隊員としての最終階級は親衛隊大尉。
経歴
[編集]1912年、アルテンブルクにて生を受ける。
1937年、ライプツィヒ大学にて医学博士号を取得。国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)の党員であり、党員番号は555,294、SS隊員番号は23,069だった。第二次世界大戦勃発後、武装親衛隊の野戦病院に派遣された[1]。
1941年、ブーヘンヴァルト強制収容所の収容所付医師に任命。1942年6月、マイダネク強制収容所に移る。1943年10月、グロース・ローゼン強制収容所の主任収容所付医師に任命。1944年9月、ダッハウ強制収容所に移る。1945年3月から1945年4月初頭まで、ミッテルバウ=ドーラ強制収容所の外部収容所であるボールック兵舎強制収容所で収容所付医師として勤務[2]。その後、ミッテルバウ=ドーラ強制収容所の撤退の一環として、シュミットは4月8日あるいは9日にベルゲン・ベルゼン強制収容所に移動し、4月14日にイギリス軍の捕虜となった。10月25日のベルゲン・ベルゼン裁判では、アルフレート・クルツケと共に証言を行った。当時、シュミットは進駐軍がベルゲン・ベルゼン強制収容所跡地に設置した避難民収容所(DP-Camp)で主任医師を務めていた[1]。
その後逮捕され、1947年8月7日から1947年12月30日のダッハウ裁判の一環として行われたダッハウ・ドーラ裁判にて起訴を受けるものの、無罪判決を受けている[3]。
1975年11月26日、再び逮捕され、第三次マイダネク裁判にて、ガス室に誰を送るのかを選びうる立場にあったとして、少なくとも8人の収容者の殺害について、デュッセルドルフ地方裁判所から起訴を受けた。しかし、結局は証拠が不十分であることから、ポーランドにて殺人犯として指名手配されていたにもかかわらず、シュミットは1979年3月20日に再び無罪判決を受け、4月19日に釈放された[4]。
1985年の時点では、ユッツェに暮らしていたと伝えられている[5]。
脚注
[編集]- ^ a b Aussage Heinrich Schmidt am 25. Oktober 1945 (Memento vom 4. 10月 2013 im Internet Archive) im Bergen-Belsen-Prozess (englisch).
- ^ Vgl. Ernst Klee: Das Personenlexikon zum Dritten Reich: Wer war was vor und nach 1945., Frankfurt am Main 2007, S. 545.
- ^ Vgl. Robert Sigel: Im Interesse der Gerechtigkeit. Die Dachauer Kriegsverbrecherprozesse 1945–48., Frankfurt am Main 1992, S. 102
- ^ Vgl. Nach Freispruch Flucht in das Richterzimmer - Tumulte im Düsseldorfer Majdanek-Prozeß, in: Hamburger Abendblatt, Ausgabe 92 vom 20. April 1979, S. 2
- ^ Vgl. Ernst Klee: Auschwitz, die NS-Medizin und ihre Opfer., Frankfurt am Main, 1997, S. 57
参考文献
[編集]- Ernst Klee: Auschwitz, die NS-Medizin und ihre Opfer. 3. Auflage. S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main, 1997, ISBN 3-596-14906-1.
- Ernst Klee: Das Personenlexikon zum Dritten Reich: Wer war was vor und nach 1945. Fischer-Taschenbuch-Verlag, Frankfurt am Main 2007, ISBN 978-3-596-16048-8