ハイリゲンクロイツ (ニーダーエスターライヒ州)
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ハイリゲンクロイツ Heiligenkreuz | |||
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位置 | |||
ハイリゲンクロイツの位置 | |||
座標 : 北緯48度3分 東経16度8分 / 北緯48.050度 東経16.133度 | |||
行政 | |||
国 | オーストリア | ||
州 (Bundesland) | ニーダーエスターライヒ州 | ||
郡 (Bezirk) | バーデン郡 | ||
基礎自治体 (Gemeinde) | ハイリゲンクロイツ | ||
地理 | |||
面積 | |||
基礎自治体 (Gemeinde)域 | 29.5 km2 (11.4 mi2) | ||
標高 | 312 m (1,024 ft) | ||
人口 | |||
人口 | (2013年1月[1]現在) | ||
基礎自治体 (Gemeinde)域 | 1,541人 | ||
人口密度 | 52人/km2(140人/mi2) | ||
その他 | |||
等時帯 | CET (UTC+1) | ||
夏時間 | CEST (UTC+2) | ||
公式ウェブサイト : http://www.heiligenkreuz.at |
ハイリゲンクロイツ (Heiligenkreuz) はオーストリア北東部、ニーダーエスターライヒ州バーデン郡の町[2]。ウィーンの森域内の南部にあたる[3]。 レオポルト3世がその息子オットーの要請により創建したハイリゲンクロイツ修道院[4]があり、近所にはベネディクト16世の名を冠した哲学・神学の大学[5]、そしてマリー・フォン・ヴェッツェラの墓が付属する[6]。
もともとこのあたりはサッテルバッハ(Sattelbach)と呼ばれていた[7][8]が1188年にレオポルト5世が聖十字架をもたらしたことにより聖十字架を意味する「ハイリゲンクロイツ」と呼ばれるようになった[3]。修道院が副業も始めるようになると、修道士以外にも作業に従事する賃金労働者が用いられ、修道院の周囲に町や村が形成されるようになるが、この形態でハイリゲンクロイツ修道院は中世において製鉄業を行っていた[9]。森の中に創建された修道院が、徐々に周囲を開発し集落化していったのである[6]。第二次世界大戦での破壊から復興してより、修道院とヴェッツェラの墓は多くの観光客が訪れるようになっている[6]。
人口推移 | ||
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年 | 人口 | ±% |
1939 | 987 | — |
1951 | 1,083 | +9.7% |
1961 | 946 | −12.7% |
1971 | 1,056 | +11.6% |
1981 | 1,105 | +4.6% |
1991 | 1,324 | +19.8% |
2001 | 1,331 | +0.5% |
2011 | 1,520 | +14.2% |
脚注
[編集]- ^ Statistik Austria - Bevölkerung zu Jahres- und Quartalsanfang, 2013-01-01.
- ^ “ハイリゲンクロイツ 【ハイリゲンクロイツ】”. コトバンク. 2014年2月2日閲覧。
- ^ a b “皇帝の保養地バーデンとウィーンの森(南部)”. オーストリア政府観光局. 2014年2月2日閲覧。
- ^ シトー会の修道院。ブラウンフェルス,ヴォルフガング 著、渡辺鴻 訳『図説西欧の修道院建築』八坂書房、2009年、121頁。ISBN 978-4-89694-940-7。
- ^ “Willkommen”. de:Philosophisch-Theologische Hochschule Benedikt XVI.. 2014年2月2日閲覧。
- ^ a b c “Geschichte (歴史)”. ハイリゲンクロイツ(公式サイト). 2014年2月2日閲覧。
- ^ “ハイリゲンクロイツ修道院はウィーンの森の神秘なる中心”. ハイリゲンクロイツ修道院. 2014年2月2日閲覧。
- ^ 現在でもこの地名は残っており地図上で確認できる北緯48度01分54秒 東経16度08分26秒 / 北緯48.031624度 東経16.14056度。
- ^ プレスイール,レオン 著、遠藤ゆかり 訳、杉崎泰一郎 編『シトー会』 155巻、創元社〈「知の再発見」双書〉、2012年、20-22頁。ISBN 978-4-422-21215-9。
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、ハイリゲンクロイツ (ニーダーエスターライヒ州)に関するカテゴリがあります。