ノート:AIR (ゲーム)/過去ログ1
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ふと思ったのですが、劇場版及びテレビアニメ化が決定した今AIR (ゲーム)という項目名はあまり適さないかも
それとも、アニメに関してはAIR (アニメ)みたいな項目を新たに建ててそちらに記載した方がよいのでしょうか?
公開前になって情報が公開されるとアニメに関する記述量(スタッフキャストなど)が増えると思うのでおはぐろ蜻蛉 2004年8月10日 (火) 12:10 (UTC)
観鈴、佳乃、美凪の表記
[編集]女子高生はまずいのでは…ソフ倫とかの問題もあるのですし。変更しておいたほうがよろしいのでは?
*少しでも懸念のある点は是正した方が良いですね(^‐^)そうしましょう。
劇場版の評価に関して
[編集]ここ一週間程度劇場版の評価に関して編集合戦が勃発しています。このままだと保護されかねないので話し合いをした方がいいと思います。 キャラクタの性格は明らかに原作と異なりますし、ドンドコドンは余計だったとは思いますがそこまでひどいものだとは思えないんですけどね。 ちょうど、ONE2がONEの続編としては評価が低いものの、一ゲームとしてはそこそこ評価されているのと同じかなとは個人的に思います。 おはぐろ蜻蛉 2006年3月30日 (木) 14:20 (UTC)
劇場版も評価が揺れますが、ここ最近の編集合戦はTVアニメ版の評価で起きているようです。Kanon第二期とClannad劇場版開発の発表が発端かと思われます。 少なくとも、ネットの方々でおおむね高い評価を得ていることは確かなTVアニメ版を駄作であったように見せる編集はどうかと……。
- AIRアニメの評価で編集合戦が行われているようです。そこで,いったん本文の編集合戦は止めて,ノートできちんと論議をしませんか? 履歴も醜いことになっていますし,ここらできちんと相談すべきだと思います。
- 私の意見としては,出来る限り客観的な記述にとどめることも大事だとは思いますが,雑誌やネット上でも,TVアニメ版の評価が高いことは周知の事実ですし,これを記載することは,あまり主観的なものだとは思いません。同様に,劇場版の評価に関しては,賛否両論があることも事実なので,批判する声がある一方,評価する人もいると記述することも,かまわないと思います。マジョリティーな意見は客観的なものと捕らえていいような気がします。私は,以下を提案したいのですが,みなさんはどうでしょうか?
- 『TVアニメ版は丁寧な作画・演出により多くの視聴者に支持され、有数のハイクオリティーアニメとして多大な評価を得,DVDの売上数も2005年アニメDVD売上ランキング年間2位を記録した。一方、劇場版は監督の出崎統によるオリジナル要素が強く、監督独自の解釈によるストーリーには賛否両論があり、一部のファンから支持が得られなかったが、監督独自の解釈自体を高く評価する声もある。』
- Modmouse 2006年4月6日 (木) 03:31 (UTC)
- 一枚噛んでしまった者ですが、理性的なご意見があって安心しました。関与した殆どの人が思い、また広く知られて概ね同意を得ている主観ならば、事実として取り扱うことに問題があるとは思えませんし、それを個人の主観と切り捨てるのはそれこそ個人の主観と思われます。提案についてはもっとあっても良いかと思いますが、さしあたりそれで宜しいのでは。
単なる個人的感想を「広く言われているから」と記載してもいいのなら、OPの改変問題も頻繁に言われていたことなのですから含めるべきでしょう? なのにあなたは結局、賞賛意見しか書いていない。だからあなたの「主観」だと言うんですよ。屁理屈も大概にしてください。
- さて,どこから申し上げたらよいのか分かりませんが,一つずつ申し上げておきます。
- 意見を述べるならば,きちんと署名してください。これは最低限のマナーだと思います。
- 提案者様はなにも自分の意見を押し付けているわけではありません。「こういう意見はどうか?」と提示したまでです。それに対して,賛成意見があり反対意見がなく,また提案されてから相当時間がたっていたため,本文を書き直したまでです。
- これを屁理屈とおっしゃるのであれば,Wikipediaの秩序はどこに消えてしまったのでしょう?
- また,これは編集合戦を回避するためにノートページで提案されたものです。それなのに,貴方一人の意見で,「屁理屈」と決め付けて,勝手に本文を書き換えるなど,どちらが「屁理屈」を言っているのか分かりません。もう少し,節度をわきまえてはどうでしょうか?
- 暴言失礼ながら,目に余る投稿があったため,意見させていただきました。
- 以上より,とりあえず,ノートでの提案が起こる前の版にRevertさせていただきました。Joyeuse 2006年4月24日 (月) 07:36 (UTC)
- 全くです。マジョリティーすら個人的主観というなら、いかなる名画も名画とは言われず、あらゆる評価も(公的機関が認定でもしないかぎり)個人的主観といわれるでしょう。自分が否定的だからといって、概ね賛同されている肯定的意見を一方的に抹消してよいはずもありません。であればWikiは一体何を書けるのでしょうか。
- 私からもWikipediaとは何なのか、そしてWikipediaは齟齬する場合どうしているのかを、今一度考えて頂きたくお願いします。
--Lit-mas 2006年4月25日 (火) 07:41 (UTC)
- そろそろノートの論議も収束されたと思います。提案者様の意見を反映したいと思います。--Joyeuse 2006年7月4日 (火) 03:23 (UTC)
- 京都アニメーション版だけDVD売り上げの実績をかくのはどうかと、映画版にも入場者数の実績書いてもいいんでは? あと『監督独自の解釈によるストーリーには賛否両論があり、一部のファンから支持が得られなかったが、監督独自の解釈自体を高く評価する声もある。』の部分ですが、「評価もある」という部分がどうにも好意的な文章に感じ取れません。「少なくない」のほうが柔らかだと思います。
- 少し劇場版を肯定的に見すぎている気がします。ネットや雑誌でのReviewを見ていても、TVアニメ版はおおむね賛同されているものの、劇場版の評価は一部の人を除いて決して良いものだとは思えないんですね。好意的かどうかは別にして、「少なくない」では評価をしている人が相当数いるような印象を受けてしまうのですが。現在の「評価もある」にとどめたほうが良いのではないでしょうか? 劇場版の入場者数の表記はかまわないと思いますが「異例とも言える」などといった表現は過剰なのではないでしょうか? 他のみなさんにも意見を募ってみたいと思います。220.109.232.181 2006年7月13日 (木) 03:46 (UTC)
- 逆にTV版のほうが好意的に観すぎな気もするんですが? 確かにAIRは京都アニメーション人気の火付けになりましたが、同時に毛嫌いしている方も大勢いるわけで。
「「異例とも言える」などといった表現は過剰なのではないでしょうか」とのことですが、短館上映でかつ美少女恋愛ADVを原作とした映画としては結構異例のことだと思いますけど? あなたの書き込みを見ていると私情で劇場版を好意的に書きたくないという風に取れるのですが? 批判している人の大半は原作ファンであって、それだけ観れば確かに一部の人でしょうが、初体験の人もたくさんいるわけで、そういう人にはおおむね好評のようですよ。まあ個人的にハッキリいってしまえば、もう最後の文はいらないと思います、争いの元です。 『翌2005年には京都アニメーションによってTVアニメ化され、BS-iにて放送された(全12話に加え、総集編と特別編2話)。また同年には東映アニメーションによる劇場映画化がなされた。 』 だけでも十分だと思うのですが? どうしても残したいのなら「TV版は原作に忠実」「映画版は原作とは異なる展開」だけで十分だと思います。一々TV版の売り上げに関する記述とかを書いてしまうからこじれる気がします。218.43.46.86 2006年7月25日 (木) 09:13 (UTC)
218.43.46.86 さんのおっしゃるように、TV版の売り上げに関する記述は確かに論争の元になるので、削除するのは良い考えだと思います。ただ、前の論議にもあるように、マジョリティーな意見を無視するのもいかがなものかと思います。TV版の評価はやはり高いですし、劇場版の評価も一部の人には高いみたいですが、TV版と比較した際にはやはり明らかな差があります。評価に明らかに差があるものを「どちらも素晴らしい」と書いては、事実を無視した記述になります。その点でいうならば、Modmouse さんの提示された案はうまく折り合いをつけていると思います。Modmouseさんと218.43.46.86さんの意見を折半して、
『TVアニメ版は丁寧な作画・演出により多くの視聴者に支持され、有数のハイクオリティーアニメとして多大な評価を得た。一方、劇場版は監督の出崎統によるオリジナル要素が強く、監督独自の解釈によるストーリーには賛否両論があり、一部のファンから支持が得られなかったが、監督独自の解釈自体を高く評価する声もある。』
でよいのではないでしょうか?--Joyeuse 2006年7月25日 (火) 00:38 (UTC)
- 確かにこの作品が後のハルヒ等の支持に繋がったのは事実でしょうが、一方で否定的な意見が多い(匿名掲示板等)のも事実ですよ? そういった事実もあることを書かないのは、それこそ事実を無視した記述ではないでしょうか? 賛否両論なんてどっちにも多くあります、ただ妄信的とも言えるファンが騒いで目だっているだけだと思います。それにもし劇場版に多少なりとも否定的な文を書くなら、TV版だって否定されている事実を書くべきです。あるいは前にも言ったように下の文は要りません。そもそも評価なんてそれぞれの人がつけるものであって、わざわざWikiでそんなこと書く必要があるのでしょうか? (それは他のWiki項目でもいえることでしょうけど……)「TV版は原作に忠実に展開、劇場版は原作とは違う展開」という簡単な内容説明でいいでしょう。少なくとも「ハイクオリティアニメ」と一概に絶賛だけされてるだけの現状に、私は納得できません。
218.43.46.86 2006年8月2日 (水) 01:24 (UTC)
『少なくとも「ハイクオリティアニメ」と一概に絶賛だけされてるだけの現状に、私は納得できません。』というのこそ、218.43.46.86さんがTV版AIRを肯定的に見たくないという私情ではないでしょうか? 以前に行われた編集合戦のときに一度論議になったことで,決着の付いたことを再び蒸し返すのはどうかと思うのですが。私は各々の評価を書くべきか書かないべきなのか,どちらでもかまわないのですが,以前の論議で「マジョリティーは書いても良いのでは」という論議だった以上,それを無視するのはいかがなものかと思います。では,評価を記載するとした場合,『妄信的といえるファンが騒いで…』という218.43.46.86さんの主観的な解釈は論外とすれば,ネット上のどこをどう検索しても評価はTV版>劇場版でしょう(あくまでこれは客観的な見解です,検索すれば明らかでしょう)。でも,劇場版を評価している人も事実ですし,実際出崎監督の解釈を評価している人もいるわけで,だからそれも踏まえて『監督独自の解釈自体を高く評価する声もある。』という記述を明記しようとしたわけです。私はこの論議に賛成ですし,現行の記述のまま,もしくはそれからDVDの売り上げの記述を削除した案が一番良いと思っています。
以前に『ネットの方々でおおむね高い評価を得ていることは確かなTVアニメ版を駄作であったように見せる編集はどうかと……。』という意見がありましたが,私もその通りだと感じています。劇場版に関するする記述に関しても,劇場版を駄作だと主張しているわけではなく,単に「原作と異なるストーリーに対する視聴者の支持に賛否がある」と謳っているだけなのですから,躍起になってTV版を否定する必要はないでしょう。『TV版だって否定されている事実を書くべき』ということですが,218.43.46.86さんの意図を汲み取れば,それはすなわち『駄作であったように見せる編集』ということなのではないのでしょうか? もちろんそういうように感じられないような対案があるのであれば,考察の余地はあると思いますが。--220.109.232.181 2006年8月1日 (火) 16:58 (UTC)
- 別にそういうわけではありません、明らかに公平性に欠けるからと思っただけです。今の「劇場版とTV版の評価の書き方」は明らかに不公平です。TV版はハイクオリティと絶賛されているのに劇場版は「まあこういう人もいるよ」という上から見下している感じのように見えます。これもまた「駄作と見せようとしている」みたいじゃないですか。上の方のように屁理屈とまでは言いませんが、はっきりいって飲み込みきれない部分があります。とはいえ、以前編集されたTVアニメ版AIRの評価書きを観ましたが、これは明らかに公平性が欠けているので論外でしょう。しかし現状もその逆をしているように見えます、柔らかに言い換えてるだけで、冷静に観れば結局本質は前と変わってないです。「ハイクオリティアニメ」の部分は特にそれが目立ちます。あと無視してしまったのは本当に申し訳ありませんが、私は「マジョリティー」といものには賛成しかねます。客観的なデータを観れば確かにそうですね。しかし本当にそれをするなら極端な話、ネットで多く言われているような、劇場版の評価は多数派である「駄作」とはっきり言ってしまえばいいじゃないですか。それをしないでお情けのように『実際出崎監督の解釈を評価している人もいるわけで,だからそれも踏まえて『監督独自の解釈自体を高く評価する声もある。』という記述を明記しようとしたわけです。』といわれるのはいかがなものでしょうか? なら逆にTV版を快く思っていない人もいるわけで、それも踏まえるべきでは? 互いに良い点悪い点があると考えている者としては到底納得できないです。百歩譲って「マジョリティー」は「書いていい」としても、「必要ではない」ですよね? どうしてそれを書きたがるのでしょう? 最低限『TV版は原作に忠実に展開、劇場版は原作とは異なった展開」』を書けば、作品の必要な内容はパッと簡潔に伝わると思うのですが? 別にどちらが駄作とも良作とも言ってないですし、これが私の対案ですよ。そして上記のノートの議論で読んでいて思いましたが、「マジョリティー」の必要性が私は理解できません。Wikiは別に商品を売るための宣伝媒体ではないはずです。ただあくまでそういった『評価記述』を残したければ公平にTV版の批判意見も軽く綴るべきではないかと思うだけであって。とりあえず最低売り上げの部分が必要ないという所は同意のようなので、そこだけは早急に消すべきだと思うんですがここはどうでしょう。
218.43.46.86 2006年8月2日 (水) 03:43 (UTC)
- 現行の案を提案させていただきましたModmouse と申します。現在の記述に至った経緯は、220.109.232.181さんが述べてくださったとおりです。当時は、TVアニメ版を評価する記述が書かれれば、すぐにそれが駄作であるかのような記述に書き換えられ、劇場版に関しては駄作を通り越してひどい記述がなされることもありました。そこで「評価を書くならば、個々人の意見ではなく、ネットや雑誌で広く主張されていることを書く」ということで、妥協を図ろうとしたのです。ネット・雑誌上ではTVアニメ版の評価はほとんどすべてが「ハイクオリティーアニメ」として評されていましたし、これを記載することに対して今までは大きな反対論はありませんでした。一方、劇場版は「監督の個人的解釈が強い」のも事実です。それに対する評価の記述で大きな編集合戦が起こっていたので、「評価する人もいればしていない人もいる」と書くことで折半しようとしたわけです。これが現在の記述に至る経緯です。
- このような経緯を踏まえている以上、私個人としては、現在の記述が、少なくともWikipediaコミュニティー上では公平性に欠けるとは全く思っておりません。しかし218.43.46.86さんのように、それを快く思わない方がいらっしゃるのであれば、私はこの記述すべてを消すことを提案します。すでに本文には、TVアニメ版と劇場版の存在は記述されているわけですし、『TV版は原作に忠実に展開、劇場版は原作とは異なった展開』と書くにしても、中には「TV版でも原作と違う部分がある」などという駄々をこねる方が過去にもいらっしゃれば現在もいらっしゃると思いますので、いっそのこと削除してしまえばよいのではないでしょうか。Modmouse 2006年8月2日 (水) 05:39 (UTC)
- 確かに以前の現状よりはマシだと私も思います。しかし個人的には以前よりは良いとは思いますが、完全に快く思えません。やはり評価を書くということ自体が間違いだと私は思うのです。多数派評価を書く、という必要は私としてはないとしかやはり思えません。そんなわけで俺みたいに「なんだこれは」と頭にきてしまう人間もいるわけですから。やはり丸ごと消すべきだと思います。しかし、{『TV版は原作に忠実に展開、劇場版は原作とは異なった展開』と書くにしても、中には「TV版でも原作と違う部分がある」などという駄々をこねる方}がいるとは思いもしませんでした。なら『TV版は原作に概ね忠実に展開、劇場版は原作とは異なった展開』と書けばいいと思いましたが、やはり駄々をこねられそうな気がしたので丸ごと消すのが一番だと思います。何度読み返しても最後の文の必要性が理解できませんでしたので。
218.43.46.86 2006年8月3日 (木) 00:32 (UTC)
- 218.43.46.86さん、早速のご返答ありがとうございます。それでは、数日様子を見て、特に反対意見がないようでしたら、該当部分は削除する方向で検討したいと思います。--Modmouse 2006年8月2日 (水) 16:31 (UTC)
- 私は変更に反対です。これは、今までWikipedianの間で論議をされ合意されたことであり、私もその結論に満足しておりました。それなのに、218.43.46.86さんたった一人のわがままで、今までの論議を台無しにするなどもってのほかです。「客観的なデータを観れば確かにそうですね。しかし本当にそれをするなら極端な話、ネットで多く言われているような、劇場版の評価は多数派である『駄作』とはっきり言ってしまえばいいじゃないですか。それをしないでお情けのように…」なんてちぐはぐな意見をおっしゃっておりますが、それなら「駄作」と書いてしまいましょうよ。ネット上での評価はおおむねそうなのですから。でも誹謗中傷をWikipediaで論じて何の意味がありますか? だからこそ、このような妥協点を探ったわけじゃないですか!
- 「ハイクオリティー」な物はハイクオリティーと書き、賛否両論のあるものは一方の意見のみで「駄作」と決め付けず、両者の意見を述べる。これのどこが屁理屈というのですか! それを「お情け」と思うのであれば、思えば良いのです。ただしそれは、218.43.46.86さん個人の感情であり、何度も強調しますがこのノートを見ても分かるように、大方のWikipedianはこの論議を受け入れたのです。218.230.197.238 2006年8月14日 (月) 02:16 (UTC)
- ワガママとはどういうことでしょう? 辞書において評価をかく必要性はどこにあるのでしょう? 議論してきた意味はなどとおっしゃられていますが、見ている限りTV版のファンの方々が数で「ゴリ押し」したようにしか思えませんよ、あなたの話聞いてると。「TV版を駄作として見せるような編集はどうかと」と上にありましたが、今は劇場版でそれが行われていますよ? 数が多ければ何書いてもいいんですかね? というかそんなに劇場版を貶めたいんでしょうか? なんで劇場版が情けをかけられるみたいなことになってるんでしょうか。情けと思うなら勝手に思えばいいって、そうやって劇場版をこれから見る人にそうやって「駄作としての先入観」を植えつけるんですか? 何はともあれ私は書き換えうんぬん以前に最後の部分の必要性を問いたいのです。以前も言いましたがここは宣伝媒体でも何でもないわけで、評価だって人がそれぞれがつけるものです。この評価を見たことによって第一印象という名のフィルターがかかってしまうことだってあるはずです。大体「ハイクオリティ」なんて書いてある時点で先入観が生まれるのは必然でしょう。そんなに劇場版を賞賛されたくないんですか? あなたの反論を見ているとそうとしか思えませんね。第一そういう人だっているから結果的に荒らしにもにた編集合戦が起きたわけです。ならその荒れる原因である根元からごっそり切ってしまえばいいじゃないですか。そんなにTV版を持ち上げたいんですか? 評価をかく意味は、必要性はなんですか? 初めてあの文を見た人には、あなた方の思惑通り『TV版は傑作、劇場版は「駄作」』と極端な話そうやってストレートに伝わっていくんでしょうね。大体売り上げを書いている時点で何か違うと思っていたんですが、改めて確信しました。最後の文の必要性は全くありません。ただでさえ両者とも賛否両論いろいろあるわけですから、私はあくまで削除を提案します。駄作に見せるための苦労なんて全く意味がありませんよ。(Modmouseさんにそのような意図はないと信じたいですが、上の方の多数決だけでゴリ押しするようなやり方を見ているとちょっと)もし評価の文面がないと「アニメAIRが表現出来ない!」という明確な必要性を私に説いてくださるのなら今のままでもいいですよ、売り上げの表記もそれなら必要になるでしょうしね。とにかく皆さんあまり触れられないようですが、そんなに残したかったら必要性を書いてみてくださいよ、「評価」をかくことの必要性を。長くなりましたが、反論するのであれば「必要性」を私に説いてください。賛否両論あるのなら元々そんなの書かないのが吉でしょう。
218.43.46.86 2006年8月16日 (水) 02:23 (UTC)
とりあえず「公平性」「マジョリティー」を冷静によく考えられてはいかがでしょう。 個人的に思う、思えないだけでは単なる水掛け論。話になりません。 賛否両論あるなら両方書いても良いですが、否定がごく少数でさしたる重要性もないならば記載するほどもないでしょうし、少数派なら一部にはそういう意見もあると記載すれば十分でしょう。多数決だけでゴリ押しといわれますが、議論しても動じないということは、少数派の意見が多数派の心を動かしていない、また疑問に思わせるだけのものでもないのも事実ですから、議論結果として多数であることは公平性を持ちます。また当事者以外のできるだけ広い意見等も引用することは公平性を確保します。そうでなければたった1人の反論者のためにウイキは全く何も書けません。私がAIRを頑迷に「エーアイアールと呼ぶべきだ!」と主張し続けたら、題名は消すべきですか? 実際問題、既に大勢の合意は出ている以上は現状の記事で十分と思われ(劇場版も駄作とは全く言われてませんし)、荒れるというのならしばらくこのままにしておいた方がよろしいと思います。そしてその後の落ち着きから書いても遅くは無いでしょう。 --202.214.61.35 2006年8月22日 (火) 15:49 (UTC)
「公平性」「マジョリティー」の話はよくわかりました、自分も熱くなりすぎていたようです。ですが私が一番に聞きたい「評価を書く必要性」が見えてこないのですが? 1人の反論者のためにウイキは全く何も書けないというのはわかりますが、かといって必要のないものをツラツラと書き連ねるのはどうかと。「私がAIRを頑迷に「エーアイアールと呼ぶべきだ!」と主張し続けたら、題名は消すべきですか?」との例えもよくわかりません。AIRはエアーと公式で断定されていることでしょう。それをそんな風に呼べ、書けというのは当然おかしな話です。ですが評価はどうでしょう? これは公式も何も無い見解の事柄にあって、それは人それぞれの感性に基づくものです。それをイチイチ書くのは果たして必要でしょうか? Wikiは人に先入観を持たせるための場でしょうか? 改めて「評価の必要性」について明確にお聞きします。 --218.43.46.86 2006年8月16日 (水) 02:23 (UTC)
上の論議でお分かりになられていると思っていたのですが、この記述は客観的な記述で公平性があると多くのWikipedianが認めているものです。多くのWikipedianが認めているということは、当コミュニティー上で偏見や先入観に基づいた記述でないことを意味しています。
百科事典に記載されるべき情報は、誹謗中傷の類を除けば、あらゆるものが許容されるべきです。百科事典とは「百」が記載されている場所であり、利用者がその「百」の中から必要な情報を選び抜けばよいのであって、書き手が必要か不必要かを選ぶべきものではありません。このようなコンセプトに基づいているのならば、当コミュニティー すなわちこの百科事典の執筆者たちが偏った記述であると考えていないならば、それを記載されるのを妨げるのは許されません。
それとも218.43.46.86さんは、これが「偏った記述」だと主張されているのでしょうか。それならば私の意見は202.214.61.35 さんの「そうでなければたった1人の反論者のためにウイキは全く何も書け」ないという意見と全く同じです。以前に「それ」は「其れ」と書くべきだ、という面白い主張があり、編集合戦が行われていたことがありました。たった一人が「『其れ』しか許さない」という主張をしたために、Wikipediaの編集が滞ってしまったのです。同じことが現在この項目で起こっています。私は、多くのWikipedianの賛同が得られている現行の記述を保つべきだと思います。--Joyeuse 2006年8月24日 (木) 13:05 (UTC)
多数的に認められている。それは何度も言われているのでよ~くわかりました。で、許容されるべきというのも当然わかりますが、許容されていいものでも、必要の無いものは辞書として排除してしまったほうがよいんじゃ? 評価に関しては「必要はない」と私は言っています。認めたからとかそういうことじゃなくて、どうして「評価」を残すことに固執するのでしょう? 上記の文を書かれた方だってある程度納得された、というかご本人の言うように評価以前にTV版と劇場版について最低限必要な情報は書かれているはずです。だというのに、ワガママだなんだ言って、結局の所TV版をとにかく褒め称えたいんでしょうかあなた方は。とにかく、何故「評価」を残したいのでしょうか? いくら許容されるべきだといっても、必要性がないものは一つの項目を冗長にするだけではないんですか? あるいは今思いついたことですが、せっかくTV版と劇場版のスタッフ等の項目があるのだから、そこである程度許容される範囲内の中で互いの作品について書けばよいのではないでしょうか? 二つを同居させようとするから話がこじれるような気もするんですが。 まあ最低限、唯一同意のあった売り上げに関しては、私の後者の意見にしない限り評価とかそういうの以前に不必要です。事実を書く、というのなら映画版だって書くべきものなのですから。そこを見落としているのにも気づかなかったということは、明らかにその多数決に加わった方々がみんなTV版のファンしかいなかった、ということの表れですね。 --218.43.46.86 2006年8月25日 (金) 04:59 (UTC)
ファンしかいなかった、と言われますが、議論しても結果として反対意見がない、或いはごく少数であれば合意として成立します。なので記載する資格を得ます。 「評価」も客観性と公平性を持つ事実として評価されたのなら、記載する資格を得ます。なぜならば「客観性と公平性を持つ」からです。でなければLit-Mas氏の言われる通り「いかなる名画も名画と言われない」でしょう。 多数の同意が得られるものは記載する記事として扱ってよいものです。でなければ、いかなる歴史上の出来事も記載できないでしょう(異論を持つ学者はほぼ全てに存在するため)。 著しく公平性を欠いていれば別ですが、少なくとも広くネットを見回した限り評価の公平性は高く、むしろ多数派を控えめにして少数派に配慮してある記述です。 なぜ「議論の上の合意」というプロセスを重視しているかを今一度考えてください。そして評価だからという理由だけではWikiにおいて記載すべきではない理由に該当しないことをご理解ください。これらに同意できないのならばWiKiに記載する資格を持ちません。 --202.214.61.35 2006年8月26日 (土) 02:03 (UTC)
その場に私がいたら間違いなく反論していましたが? まあそんなことは今更遅いので仕方ないでしょう。 百歩譲って評価面は良いとしても、売り上げ面を書いていることはどうなんでしょうか? これのどこが「公平性が高い」のでしょう? これこそ著しい公平さの欠如では? 公平にするのなら同じ事柄(この場合は実績)は書くべきであり、劇場版だって短館上映でしかも原作は18禁を元にしているものでありながら、あれだけの入場者数があり、ロングランが何度かあったという事実がありますよ。 そちらは認められないんですか? 知っていて書かなかったというのなら、これは完全な議論不足でしょう。ネットであんまり人気が無いものはたとえ実績があっても書かなくて良い、ということでしょうか? 「少なくとも広くネットを見回した限り評価の公平性は高く、むしろ多数派を控えめにして少数派に配慮してある記述です。」とのことですが、少数派に考慮した、というのならTVAIRに対する批判だってあったはずでしょう。考慮するというのならそこも考慮した意見を書かなければならなかったのでは? あくまで「駄作」と見せない範囲であれば、別段書いても問題ないでしょう? どうしてTV版だけはそれを避けなければいけないんでしょう? 私情が見え隠れしている気がしますよ。 京都アニメーションの方針に納得いっていない人は、決して少なくありませんでしたよ? 一部の学者ほどの数ではありません。 「いかなる名画も名画と言われない」という例えもなんというか……。そもそも名画とアニメ(ゲーム)を一緒にしないで頂きたい。 宣伝媒体や批評媒体ならいざ知らず、こういった所でそれを書くものなのでしょうか? Wikiはあなた方のHPではなくてみんなのものです、だとしたらそんな主観的なものを植えつける記述は不必要でしょう。偉い学者様が多数で批評して「これはハイクオリティだ!」と言われたわけではありません。 「評価だからという理由だけではWikiにおいて記載すべきではない理由に該当しないことをご理解ください」とのことですが、私はこういった「不必要である理由」を提示しているのです、そんな簡単な理由で言ってるのではありません。 批評なんてものは冊子にして出すなり、HPでも自分で開いて感想言うなりすればいいではないですか、どうしてそれをそんなに書きたがるんですか? TV版を美しく見せたいからだけでしょう。俺は互いに公平にいくべきだと言っているのにどうしてTV版の評価だけピカピカに磨いているんですかね。 「議論上の合意」なんて台詞は耳にタコが出来るくらい聞かされました。そちらが名画を例えに出すのなら言わせていただきますが、一度可決された法案だって、議論を重ねたうえでさらに向上させていこうとするものです。 一度決まったから、などという理由で「辞書に書く評価の必要性」から逃げないでください。 「もう既に決まったことだ、口を出すな」という悪徳政治家のような横暴手段に出るのであれば、いっそ劇場版は駄作と書いてしまえばいいと思います。 なるほど、そちらのいう観点からしたがって見れば、劇場版は「駄作」ですからね。 それを「まあ好きな人もいるからこれくらい書いてやろう」ということなんでしょうか、今の記述は。TVアニメファンの方はそんなに偉いんですかね。 だから私はさっきも言ったように「それぞれの項目をもっと有効に活用してはどうか」という案を出しているのですが、それに関してはスルーでしょうか? そちらなら「一般的に言われている良い点悪い点」を書いても違和感はないでしょう。概要の部分に書きとどめようとするからおかしくなるんでは。 まあそもそも「TV版と劇場版についての記述」は既に存在しているものですから、その時点でどことなく違和感はあるのですがね。 --218.43.46.86 2006年8月26日 (土) 02:45 (UTC)
論点を整理しましょう。
・評価は書く必要が無い 公平性と客観性がある事柄であれば、ウィキに記載される資格があります。 何度も言う通り、また何度も言ってある通りです。 よって不必要である理由は根幹からウィキの精神に則っていません。なので逃げているのではなく根幹で誤っている以上枝葉を論じる必要もないのです。よって百歩譲るまでもありません。 冊子云々は全く関係なく的外れです。それこそあなたの自説をHP等だけで展開していれば全て済むのですから。そうでないからこそのWikiですよね?
名画の話はその端緒であろうと引用しただけです。 「偉い学者様」とあったのでそれを引用させていただきましょう。 ではなぜ「偉い学者様」が多数言ったら記載できるのですか? その評価に公平性と客観性が担保されているからではないのですか? 逆に言えば、学者が認定しなくても公平性と客観性があるならWikiに記載できます。 そうでなければ、全てのウィキペディアンはその専門分野で公的な地位を持つ学者などによって構成されなければなりません。それはウィキの精神に著しく反することです。Joyeuse氏も言われているような「ウィキの精神」を一考ください。何故Wikiが「合意」や「多くのウィキペディアンの賛同」を重要視しているのかも。そして現在、あなたの主張を黙殺せず相手をしているのかも。
その上で、名画というものもゲームも作品であり評価されるものです。 その点において引用しているのであり、一緒にするなというのは表面でしか見ていません。 名画というものは公的な機関が「これは名画だ」と認定するものではありません。なのに何故名画と言われるのか、そしてそれならばWikiに記載しても良いと判断されるのか、何故それを「主観でしかない」と言われないのか、そもそも何故公的な機関の認定は認められるのか、そこまで考えて頂きたかった。
・売り上げを書く必要が無い 公平性と客観性がある事柄であれば、ウィキに記載される資格があります。 ましてやなんらかの特徴的なものであれば尚更で、記載すべき程の資格を有します。 売り上げも一種の評価であり歴然たる事実である以上、公平性と客観性をもつ事実です。 そして年間2位ということは全く凡庸にはあたらず、特徴的なことです。 よって、必要がないという主張には根底から論拠がありません。 まずその点をご理解ください。
加えて評価の明確な結果、即ち裏打ちとしても重要です。特にTVとして一度無料で広く放映しているのですから、放送された上で購入するということは評価抜きに語ることは出来ないでしょう。
劇場版の入場者数等は今回初めて出た話ですが、確かなデータソースと比較対象があれば記載する資格はありそうです。ただし劇場の性質上、DVDに比べ「お試し」が多かったりTV版が呼び水になった可能性はあります。なので同時にアニメ映画としてどの程度の年間売り上げ順位だったかを併設すれば説得力を付加するでしょう。
・評価についてバランスが悪いのではないか そうであれば現状よりTVアニメ版を高く評価する意見も大きい扱いで追加しなければバランスを著しく欠くでしょう。また劇場版を酷評する意見も多々あります。 それを鑑みれば、現状は非常にマイルドな調整をされており、むしろ逆差別の懸念を持つ状況です。 全ての少数意見を書いていたらキリがなく、それこそ全個人の意見を書かなくてはなりません。 極力簡潔な文章を目指すべきなのは言うまでもないことです。
それでもバランスが著しく悪いとするならば、客観性のある外部のデータを提供ください。 法律を改正しようというのならば、歴然たる問題を提示しなければ改正できる訳がないのと同様です。ましてや大きく変えるのならば、大問題か根幹に関わる問題でなければなりません。 そしていかに主張しようとも採決にて多数を占めなければ改正できません。「合意」や「多くのウィキペディアンの許容」というものが「議決」と同義であるということに気づいてください。 合意を得られなければ、それこそ無視できるほどの極少数として取り扱わざるを得ません。 何故ならば、公平性と言いながらそれは単なる逆差別にしかならないからです。 それは公平性と客観性を欠くことになるでしょう。よって、それこそ偏見を植えつけるものです。
それと「数の暴力」「暴挙」「悪徳政治家」のような議論に全く必要のない感情的な罵詈雑言は今後厳に慎むようお願いします。そうでなければ、あなたの言葉のように例えればあなたの主張は「悪質な活動家」のように単なる偏見と個人的な感情論でしかなく、意見もまとまりの悪い感情の羅列に過ぎず「単にTVアニメ版の賞賛を阻止したいだけでしょう、この人は」と客観性を欠くもので議論をすることに意味がないと判断され、あなたの意見が他の方の心とWikiの記事を動かすことを自ら閉ざすでしょう。 そして、このように罵詈雑言を書くことが論の正しさを捕らえにくくすることを理解してください。 合意についてよーく理解したとのことなので蛇足とは思われますが、ノートは合意形成の場であり、合意されなければ個人的に思う思えない納得できないなどは、結論から言うとそれこそ記事にする必要がありません。その点からもこのように罵詈雑言が合意を妨げるものであることを理解し、合意を得るための文書を書くことをお勧めします。 --202.214.61.35 2006年8月27日 (日) 07:45 (UTC)
- 評価の必要性に対する疑問を盛んに叫ばれるIP氏。私には、劇場版についてあなたの気に入らないことが書かれていたので、該当部分を何とか書き換えようとしているふうにしか見えまえせん。私情が見え隠れしている気がしますよ。
- ここはあなたの個人的な考えを発表・追求する場所ではありません。Wikiはあなた方のHPではなくてみんなのものです。
- 一般的に言われることとしての多数派の考えが書かれることを「数の暴力」などと言われるのであれば、Wikipediaにあなたの居場所はありません。すべての記事は「数の暴力」で成り立っています。
- 上の方で「私は「マジョリティー」といものには賛成しかねます。客観的なデータを観れば確かにそうですね。しかし本当にそれをするなら……」とありますね。Wikipediaに書かれるのはまさにその客観的なデータです。
- 売り上げに関する記述も、単に事実として書かれているだけでありますから、現行のままで問題ありません。
-- D.328 2006年8月27日 (日) 06:01 (UTC)
Wikiの方針による「資格がある」という理屈はもうわかりました、もう結構です。評価を書いたご本人ですらある程度話を理解してくれたというのに、どうしてそんなに評価を残したがるのか、互いの作品の最低限の情報はあるというのに。そこまでTV版「だけ」を綺麗に見せたい思考がもう理解できません。ここはTV版のファンの方々のだけのもののようですから、いっそ劇場版を駄作と書いてしまいましょう。その方がそちらとしても良いのではないでしょうか? 客観性として見るのであれば、劇場版はほとんどが駄作評価、賞賛など「ごく少数」みたいですよ? だとすれば駄作と書くのが一番事実に基づいた記述でしょう。評価する声などほとんどないですから、それを書くのは事実に反したものでは? --218.43.46.86 2006年8月26日 (土) 02:45 (UTC)
失礼ながら、いまだ本質を理解できず表面を全てと見られているようですね。 思考が理解できないのは当然です。そんなものは最初から無いからです。 また表面しか見なければ、その奥が見えるわけがありません。 そして自らの過ちを認めないものが、なぜ人の過ちを正せるのでしょうか。 またそれが説得力を持つのでしょうか。 まず自らを省みてください。それから言葉を発してください。 ちなみに事実に反する恐れについては既に言及しております。ご確認ください。 理解しようとしないのならば、そこまでTV版「だけ」を貶めたい思考はこちらも理解できません。 --202.214.61.35 2006年8月29日 (火) 12:18 (UTC)
劇場版の評価に関して、ひとつだけ。 パンフの監督のコメントからみると、脚本の中村誠氏の脚本を見て面白いと思った云々と書かれている事から、監督ではなく脚本家が書き溜めたオリジナル要素が反映されているのだと思うのですが。
コメンタリーなどで、中村氏の脚本に監督が何度もリライトを要求していたことや、監督が独特の解釈をされることで有名なこと、今回も大胆な解釈を加えたことなどを明確にしておりますので、現行の記述で問題ないと思います。また、劇場版の評価についての問題ですが、最後の書き込みから1週間以上経過し、また現行の記述の維持が多数なことから、記事には変更を加えないことで決着したいと思います。--Modmouse 2006年9月7日 (木) 17:12 (UTC)