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ノート:1Q84

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関連項目について

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雑多な関連項目を列挙するのは無意味に思います。もしこれを他の本についてもやるならば、とてつもない量に膨れ上がるはずです。仮にこの項目を書くならば、どの項目を書くべきか、合意を形成する必要があると思います。--Takemore 2009年6月8日 (月) 00:32 (UTC)[返信]

  • 徐々に系統的に整理していけばよいのではないですか。村上作品独特の膨大な「関連項目」的な情報は、知識として持っていれば、その作品理解にとても有用だと思います。ひとつひとつ「どの項目を書くべきか、合意を形成する」というのは現実的では無いように思います。作家自身、それが「必要だから」書いたのでしょうから。むしろ必要以上にあらすじや登場人物にまつわる解説を書くことの方が問題ではないでしょうか。--116.80.59.195 2009年6月8日 (月) 16:18 (UTC)[返信]
  • 「村上作品独特の膨大な「関連項目」的な情報は、知識として持っていれば、その作品理解にとても有用だと思います」ということですが、僕は必ずしもそうだとは思いません。では、すべての関連項目を書くおつもりですか? 書けば書くほどよいということでしょうか。必要以上にあらすじを書いている場合、他の方々も含め、訂正が入っていると思います。あらすじを書くのでなければ、関連項目をどれだけ増やしてもいい、という発想が「百科事典」の性質を考えたときに、実にナンセンスだと思います。--Takemore 2009年6月8日 (月) 21:36 (UTC)[返信]
  • う~ん、よくわからないなあ…。あなたは「関連項目」が充実する(あるいは膨大になる)のがどうしてそんなに嫌なのですか?作品の中に出てくる「バッハの平均率クラヴィーア曲集」がどんな音楽か、「1984年」の「ビッグ・ブラザー」とは何のことなのか、チューホフが訪れ、タマルの両親が住むサハリンにはどんな歴史があるのか、「利己的遺伝子」とはどんな理論なのかなど、知れば作品理解にとても有用だと思います。「僕は必ずしもそうだとは思いません。」というのは何故ですか?それから、あなたは二度にわたって、関連項目に記述されたもの(わたしが記述した項目だけではありません)をすべてを削除しました。これは何故ですか?それはかなり「暴力的」な行為ですよ。相手を殴ってから、「じゃあ話し合おう」と言っているようなものです。--116.80.59.195 2009年6月9日 (火) 05:10 (UTC)[返信]
  • まずひとつは、多すぎる関連項目は、それを調べる者に余計な混乱を与える可能性があると考えるからです。絶対にないという確証はありますか? 必要十分な項目だけ載せればいいと思います。充実することに反対しておりません。膨大にあれば、いたずらに混乱させる恐れがある、ということで保留しているのです。「あるいは」で区切れないものがそこにあります。ではどれが必要でどれが十分でないか? それを考えましょう、と言っているのです。なお、私は「削除」しておりません。保留しているだけです。ですから、履歴を見ればわかるとおり、「消して」はないはずです。差し戻しもしておりません。これは暴力的な行為でしょうか? こうするのは、私の一存でどれが必要でどれが必要でないかを決めかねるためです。保留にしたのは、他の方に与えると思われる余計な混乱を一時的に避けるためです。そういう行為が不必要だ、と申されるのであれば、これはわれわれの認識の違いだということになります。しかし、ウィキペディアではさまざまな認識を持った方々が話し合いのもと、執筆されているはずです。そして過剰な執筆は「Wikipedia:過剰な内容の整理」から、考慮すべきガイドラインとして、慎むべきだと考えられています。
  • その点を除いても、私がこのように思う理由は、ウィキペディアにおいて、他の文学作品に、これほどまで関連項目が多いのを見たことがないからです。少なくとも、記憶にはありません。ですので、非常に違和感を同時に覚えます。関連項目とは「最低限の、必要にして不可欠なもの」と私は思っています。利便性を追求するあまり、それがかえって利便性を阻害していると私は考えます。もし調べたければ、調べる方が自分で調べればよいのです。あなたは他の文学作品にも、親切丁寧に関連項目を多大に付与するのですか? たとえばドストエフスキーであれば、その作品にひとつずつ作品背景を知るために不可欠である項目、つまり「ロシア」、「キリスト教」、「ロシア正教」などと書いていくつもりですか? つまり、その「掲載する、しない」の境界はどこにあるのか、と問うているわけです。
  • ですので、他の文学作品において、これほどまでに関連項目の多い記述を私は見たことがないのですが、もしよろしければ例示してくださいますでしょうか。10以上の関連項目があるもので結構です。そして他のアットランダムに抽出した文学作品の項目に比べ、どの程度の比率を占めているか示していただければ幸いです。もし仮にそれが過半数以上、あるいは三分の一ほどでも結構ですが、それが占めているということであれば、私のほうが百科事典の定義を誤認していると考えます。そのときはお詫び申し上げ、認識を新たにしたいと思います。
  • そして、なぜこの作品にだけ特化して、関連項目が多くなくてはならないかの理由も合わせて提示していただければ幸いです。よろしくお願いします。--Takemore 2009年6月9日 (火) 12:08 (UTC)[返信]
  • 私もあまり多くの関連項目はいらないような気がします。

「1984年(小説)」または「ジョージ・オーウェル」・「レオシュ・ヤナーチェク」・「アントン・チェーホフ」・「平均律クラヴィーア曲集」の4つの項目で良いのではないかと思います。 --へもへも6号 2009年6月9日 (火) 22:31 (UTC)[返信]

  • 私もジョージ・オーウェル、ヤナーチェク、チェーホフは作品全体を考える上で重要なキーワードであると思います。平均律クラヴィーア曲集に関しては、それほど重要だとは感じませんが、これは個人ごとの考えによるでしょう。積極的に否定するものではありません。--Takemore 2009年6月10日 (水) 14:54 (UTC)[返信]

★青春談議モノということでしょうか??--以上の署名のないコメントは、Kajikawa kiyoshi会話投稿記録)さんが 2009年6月17日 (水) 20:16 (UTC) に投稿したものです。[返信]

全2巻とありますが、この著作は2巻で終わるものなのでしょうか? あとで2巻出て全4巻になるような気がしますが。--金銀蝋 2009年7月4日 (土) 12:37 (UTC)[返信]


「登場人物」節について

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  「登場人物」節を見ていて、それが「青豆の物語」、「天吾の物語」、「牛河の物語」と分けてあるのはその必要性を感じず、むしろ「深田保」と「ふかえり」が遠く離れて置かれるなど、不自由を感じます。 それに各人物の説明が長すぎるように思います。 そこで、

  • 「物語」で分けることを止めて、全体を眺めて並べ直す。
  • 各人物の説明を「海辺のカフカ」と同程度の簡潔なものにする。

をしたらどうかと考えています。 ご意見がありましたらお聞かせ下さい。 10日間ほど待って反対がなければ実行したいと思いますので、よろしく。--Midz会話2013年1月17日 (木) 23:58 (UTC)[返信]

 書き直しを実行しました。 --Midz会話2013年1月27日 (日) 02:23 (UTC)[返信]

「エホバの証人」と「ヤマギシ会」への言及

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表題の言及に対し、青子守歌さんが「出典がないので」ということで消去されましたので、改めて出典を脚注に付けて再録します。オーム真理教との関係については「執筆の動機と背景」節でよく分かりますが、「エホバの証人」と「ヤマギシ会」がモデルとして使われているのも明かで、しかもそれぞれの内容はウィキペディア内ですぐに調べられますので、言及しておくことは意味があると考えます。--Midz会話2013年3月1日 (金) 06:45 (UTC)[返信]

(追記)それから、たとえば「証人会」については、この小説を読み、かつ「エホバの証人」という宗教団体があることを知っている人ならば、誰でもすぐに連想する事柄です。実際、出典にあげた文献中でも、何人もの方がごく当たり前なこととして言及しています。ウィキペディアも百科事典として、そのような事実を記述し、まだ「エホバの証人」を知らない人のためにリンクを付けておくようなことは、たとえそのことを明示的に書いた「出典」を知らなくても、むしろ望ましいことと考えています。--Midz会話2013年3月2日 (土) 00:15 (UTC)[返信]

コメント 出典をきちんと明記できる(『村上春樹『1Q84』をどう読むか』の内容のひどさはともかく)なら、とりあえずは載せておいてもいいでしょう。しかし、「たとえそのことを明示的に書いた「出典」を知らなくても」というのだけは絶対にありえないことだけは書いておきます。もしご存じないのならWikipedia:検証可能性の方針およびWikipedia:出典を明記するを読んで理解していただくよう(そして次回以降は新しい記述を追加する際には必ず出典を明記するよう)強くお願いします。--青子守歌会話/履歴 2013年3月2日 (土) 01:00 (UTC)[返信]
あまり議論をする気はありませんが、青子守歌さんの出典原理主義にはいささか違和感を感じますので、考えを述べておきます。
青子守歌さんは「新しい記述を追加する際にはかならず出典を明記するよう」というように、いかなる記述でも出典を書くよう要請していますが、例えば「1Q84」の冒頭の「『1Q84』(いちきゅうはちよん)は、村上春樹の長編小説。」という記述に対しては出典を求めることはないでしょう。 それが「長編」、「小説」であることは自明のことではありませんが、誰でもそれを読めば「長編」であり「小説」であると判断するので、そのことを「明記した文献」を必要としないからです。
問題の記述に立ち戻りますと、例えば証人会は「『「エホバの証人』がモデル」と書くのであれば、私でも出典を明記します。 しかし、「『エホバの証人』を連想させる」については話が別です。 というのは、これは「エホバの証人」を多少でも知っている人なら誰でもすぐに頭に浮かぶことだからです。 青子守歌さんも要約に「連想に個人的には同意するが」と書かれているように、やはりすぐ連想されたのだろうと思います。 つまり、これはいわば「公知の判断」です。 そして小説を読めばだれでもすぐにそう考える「公知の判断」については、誰もそれを明文化して主張しようとは思わず、わざわざ明記した文献も少ないと思われます。 私があげた「・・・どう読むか」も、「出典」というよりは、誰でもそう考えるというたくさんの「例証」が載っている文献というべきものです。 そしてこのような「公知の判断」については「出典」は必要ない、というのが私の考えです。 そしてこの記述は「エホバの証人」を知らなかった人には新しい知識を加えるので、百科事典としてのウィキペディアにとって有用だと考えます。
青子守歌さんはしごくまじめに管理人の仕事をされているようで、敬意を払いますが、今回の件でいきなりリバートされたことについては疑問を感じます。 まずはノートにでも「問題提起」したらよかったのに、というところです。 これからも常識の調味料を適当にまぶして、「出典原理主義」を振りかざしてリバートを頻発して執筆者の意欲を削いだりすることのないようにお願いできたら幸いです。--Midz会話2013年3月3日 (日) 01:08 (UTC)[返信]