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ノート:12月15日 (旧暦)

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明治6年に廃止された旧暦(太陰太陽暦)と新暦(グレゴリオ暦)の関係がわかっていらっしゃらないようです。 新暦○月○日→旧暦○月○日とはなりません。 旧暦の大の月は30日で、小の月は29日です。

これは、地球から見た月の運行で一月を決めているからで、したがって旧暦の平年は、新暦の1年よりも10日余り短い。つまり、3年弱で1ヶ月のズレが生じます。 そのまま続けていくと夏冬逆転となってしまうので、閏月を含む13ヶ月の年があったのです。 ちなみに、元禄十五年は八月の次に閏八月があったので、13ヵ月の年でした。

刃傷事件から吉良屋敷討入まで、1年9ヶ月と書いた本は、旧暦のこと(このときは貞享暦)を知らずに書いているのです。正解は、1年10ヶ月です。

元禄十五年閏八月には、江戸の町奉行が3つになっています。南北に加えて「中町奉行」ができました((中町奉行は13年間?続いた)。また、この月には吉良屋敷討入りの同士が大量に脱命しました。

また、農作業などは、1年のうちでも太陽の運行による季節を知るために「二十四節気」というものがありました。太陽の運行にあわせた半月刻みのものです。

明治の改暦までは、天文観測など特殊な場合を除いて、夜明けと日暮れ(日の出・日の入りとは違う)を基準にした「不定時法」が使われていたので、機械式の二挺天賦式時計も二十四節気に一度、天賦の錘の位置を変更して季節の修正をしていました。

百楽天

申し訳ありませんが、百楽天さんが仰つておられることは十分承知してゐる積りです。12月14日 (旧暦)において1702年と書いたのは、私のミスでした。が、元禄15年12月14日は、手元の資料(野島寿三郎編『日本暦旧暦月日対照表』日外アソシエーツ)によれば1703年1月30日のやうです。私が「現在の時法では15日」と註記を入れたのは、江戸時代においては日附の変はり目が(正式には現在と同じく深夜0時でしたが、一般には)明け六つ(夜明けより少しだけ前)とされてゐたためです。百楽天さんが31日と御書きになつたのは、現在の時法による日附(15日)を新暦換算したからではないかと思ふのですが、どうでせうか。nnh 15:52 2004年4月27日 (UTC)

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