ノート:黒脛巾組
ハニーハニー00氏と私の間で編集合戦になっていますので、論点をここでまとめてみます。
●ハニーハニー00氏の主張・・・僧侶(修験者)は、武士(忍者)ではありません。
●私の編集内容・・・元々忍者自体(中略)同じく山岳地帯に住み、山岳を信仰や修行の対象とした(中略)修験道等の山岳信仰の人間達との関連性は非常に高い。
ちなみに私もハニーハニー00氏の主張「僧侶(修験者)は、武士(忍者)ではありません。」というご意見にはまったくの同意です。ただ申し上げたいのは、忍者=修験者ではないが、忍者と修験道の間には深い縁があるという事です。
このことに関する信憑性高い出典としては、ウィキペディアのWikipedia:出典を明記するに基づき脚注2の項目にあげた伊賀上野観光協会が運営する、しかも博物館法に基づく登録博物館である伊賀流忍者博物館のWEBサイト内の伊賀流忍術の起源と伊賀の歴史の記述にも書かれており、それを代表例としてあげさせて頂いております。(同様なものとしては他にも戸隠流の忍法資料館内の説明文などもある。)
私は修験者=忍者となど一言たりとも書いておりません。したがって「僧侶(修験者)は、武士(忍者)ではありません。」という理由の元の全文章削除には、こじつけにしか見えず到底納得出来るものではありません。
逆にハニーハニー00氏にお尋ねしたいのですが、要約欄での「忍者と僧侶(修験者)はまったく関係ない。」という論拠の出典は何でしょうか?それが出てこない限り私はハニーハニー00氏のご意見に賛同する事はまったく出来ません。--221.119.111.173 2008年12月23日 (火) 11:27 (UTC)
推測に基づく独自文を主張している。小説は出典にできない。Wikipedia中の忍者の項目で、忍者が修験者であるという定義はない。もともと、忍者は伊賀者・甲賀者を指し、諜報のみの忍者はいない。修験者の意味は僧侶(山伏)であり、武士である忍者とはまったく関係ない。また冒頭に唐突に長文で挿入するのはおかしい。--ハニーハニー00 2008年12月23日 (火) 13:45 (UTC)
忍者伊賀-伊賀流忍者博物館のWEBサイトには、修験者が忍者であるなどとは一切書かれていない。デタラメ。--ハニーハニー00 2008年12月23日 (火) 13:51 (UTC)
世界大百科事典 伊賀者 いがもの
伊賀国の地侍の呼称。また彼らの任じた江戸幕府の役職名。 伊賀之者,伊賀衆ともいう。戦時には間諜,斥候を任務とし,平時には雑役に服した下級の士。 1582 年 (天正 10),当時上洛して泉州堺にあった徳川家康が本能寺の変に遭遇し,急きょ難をさけて領国三河に帰還する途中,その〈伊賀越〉に身辺警護の功があって召し出されたという由緒をもつ。このときに伊勢路まで供奉した者は直参に取り立てられ,鹿伏裏越 (かぶとごえ) (伊賀越) まで供奉して途中から帰国した者 200 人は服部半蔵正成に預けられて伊賀同心と称し,のち百人組4 組のうちの伊賀組や先手 (さきて)の諸隊の同心となった。また彼らとは別に尾張で召し出された者があり,これらはもっぱら陣中で間諜に任じたという。この系譜を引く者がのちの大奥御広敷勤番の御広敷伊賀者,また明御殿・明屋敷勤番の明屋敷伊賀者,あるいは西の丸山里門勤番の山里伊賀者,普請場の巡視や職工の勤怠を監察する小普請方伊賀者である。その地位はきわめて低く,せいぜい御目見 (おめみえ) 以下, 30 俵二人扶持,譜代席,役上下どまりであった。四谷伊賀町などに屋敷を賜っていた。
地侍、武士とありますよね?どこにも、僧侶(修験者)とはありません。
大辞泉 しゅげん‐じゃ【修験者】
修験道の行者。多くは髪をそらず、半僧半俗の姿に兜巾(ときん)をいただき、篠懸(すずかけ)・結い袈裟(げさ)を掛け、笈(おい)を負い、念珠や法螺(ほら)を持ち、脛巾(はばき)をつけ、錫杖(しゃくじょう)や金剛杖を突いて山野を巡る。山伏。験者(げんざ・げんじゃ)。
大辞泉 やま‐ぶし【山伏/山×臥】 1 山野に住んで修行する僧。 2 修験者(しゅげんじゃ)。
忍者とはまったく無関係。修験者は僧侶です。
世界大百科事典 羽黒派 はぐろは
修験道の一派。山形県の羽黒山を本山とする。崇峻天皇の子の蜂子 (はちす) 皇子を開祖と称し,苦行性と古態を残すことで知られる。平安末期から組織化が進み,最も栄えた鎌倉時代には七寺七院住坊四千と号し,守護・地頭不入の権を誇った。戦国時代に衰微したが,江戸時代には輪王寺宮を管領と仰ぎ,社領 1500 石余,山上に 32 坊と 108 の堂舎,麓の手向 (とうげ) には修験 360 坊が軒を並べ,関東,東北,甲信越の各地に約 5000 の配下修験,神職,巫女が居住した。羽黒山在住の修験者はこれら在地修験者の協力を得て各地に講を結び,守札を配付するとともに出羽三山参詣の道者を泊め,かつ先達をした。明治初年の神仏分離によって三山は出羽三山神社となり,別当以下の衆徒は神職に転じ,わずかに残った僧と修験者は,第 2 次大戦後,荒沢 (こうたく) 寺を中心に羽黒山修験本宗を再興した。
忍者とはまったく無関係。
出典は示した。--ハニーハニー00 2008年12月23日 (火) 14:04 (UTC)
藩翰譜では、太宰金七といふ家子して、という原文ですが、家子は召使いの意味で忍者の意味はありませんので、また黒脛巾組との関連も不明ですので削除しました。様を伺うとあるだけで、特に忍者的な動きも確認できません。--ハニーハニー00 2008年12月23日 (火) 15:32 (UTC)
ハニーハニー00氏へ
[編集]貴方は話を誤魔化している。そして自分こそが推測に基づく独自論を展開していると知るべき。
また前半の文章で伊達家と修験道の関連、後半で忍者と修験道とわざわざ分け書いているのに、2つをごちゃ混ぜにしてそれを一括削除している。その全文章削除の論拠も実に出鱈目。
出鱈目その(1)「小説は出典にできない。」・・・要約欄でも書いたが、私は小説を出典として提示してない。「~でも触れられているが」と一つの参考として知名度の高いこの作品を書いた。 なんなら山岡の文言消しますから、それならOK?というか伊達家と修験道とのつながりを示す材料は、亀岡文殊堂、羽黒山など修験道と縁の有る寺などへの伊達家の寄進物が色々あり、地元の逸話などからも明らか。まさかそれでも無関係と言い張る気で?
出鱈目その(2)・・・「忍者=修験者ではないが、忍者と修験道の間には深い縁があるという事です。」という趣旨を私は何度も言っており、修験者=忍者となど一言たりとも書いてない。 にも関わらず相変わらずその辺を混同している。いや、これだけその旨を書いていても、なおもその様に執拗に書くのは寧ろ確信犯的にわざと混同させているようにすら見える。
出鱈目その(3)「「忍者伊賀-伊賀流忍者博物館のWEBサイトには、修験者が忍者であるなどとは一切書かれていない。デタラメ。」・・・ 当たり前です!私いつ修験者=忍者である事の出典として、ここのサイトの事書きましたか?ここまでくると完全なこじつけ。私は忍者と修験道の間には縁がある事への出典として、このサイトを書いた。
あと私がハニーハニー00氏に出典求めた件にしても、ごまかしそのもの。 提示したのは、解説文字数の少ない辞書とかですね。 それを取り上げてみて、そこに修験者の単語が入っていないから「忍者と僧侶(修験者)はまったく関係ない。」と結論付けるのはあまりに稚拙。 私が提示を求めたのは、「忍者と僧侶(修験者)はまったく関係ない。」という事が説明されている出典。逆言えばこの旨がキチンと書かれてあるのならば、文字数の少なくても出典として論じる価値はあると思います。
こんな事書く事自体がっかりしますが、貴方のこの論法用いれば如何なる事象の関連性も否定出来きます。些か乱暴ですが例を挙げてみましょう。
例・「神道と仏教はまったく関係ない。」私はこの論拠として以下の出典を提示する。 大辞林によれば仏教とは「釈迦(しゃか)の説いた仏となるための教え。キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。人生は苦であるということから出発し、八正道(はっしょうどう)の実践により解脱(げだつ)して涅槃(ねはん)に至ることを説く。前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。)。」とある。ここに神道と言う字はまったく出てこない。(当たり前だ!)よって両者は完全に無関係である。 (しかしながら日本の仏教は間違えなく神道の影響を受け、神仏習合の慣習があった。)
ってのと貴方のやり方は同じ。こんな言葉遊びの様な論拠の仕方には意味が無い。
あともう一つ。貴方が論拠に出していた世界大百科事典に、こういう記述がありますね。
忍術 にんじゅつ より・・・略~「日本における忍術の起源についてははっきりしないが、平安時代の天台・真言宗における密教の秘法的要素や、山岳信仰の修験道の修行となんらかの結びつきがあったと考えられる。」~略
さて、この文章はどう説明してくれますか?貴方は両者の関連性を完全に否定してますが・・・。 まあこの文の後略部分では「しかし~(修験道と忍術は)直接関係があるとはいえない。」と書いてありましたがね。それでも世界大百科事典によれば関係は無くとも関連は認めている訳です。
それと興味深いのが、何故同じ世界大百科事典を見ている貴方が、何故?「忍術 にんじゅつ」の記述を調べなかったのか非常に興味があります。それともお調べになられてたりしていたら話にもなりませんが・・・。
さてさて、ということで、どうも貴方は感情的に、ただ忍者関連から修験道との関連を取り払いたいだけなような? 矛盾点を私が指摘しても、無視するか、話すり替えか、無理やりこじつけするか、ですからね。貴方の場合貴方のノートにも書かれていましたが相手の完全否定しかしませんよね。提案とかまったく無しで。 どちらにしも、独自研究文と言われないようにもう少し文章をまとめなければならないとは思いますが、氏の意見には私は全面賛同しかねますので文章は差し戻します。論議を続けるのならば上記した様々な矛盾点対してに明確にお答えください。でなければ次の段階として保護等の提案等に移行していきたいと思います。 --221.119.111.173 2008年12月23日 (火) 18:10 (UTC)
戦国時代の同時代史料では、忍、であって、忍者とか忍術とかは出てきません。忍術って、武道・格闘技ですよね? 伊賀甲賀とは関係ない。
ほとんど伊賀者(伊賀衆)、甲賀者(甲賀衆)という呼び方で、忍という言い方もあまりしない。
黒脛巾組は、修験者であるということは、伊達秘鑑に記述はない。
黒脛巾組と直接関係のない話を推測調で長文で唐突に冒頭に挿入するのは、おかしい。--ハニーハニー00 2008年12月25日 (木) 10:00 (UTC)
>戦国時代の同時代史料では、忍、であって、忍者とか忍術とかは出てきません。 ・・・そのような初歩的な話は判っておりますよ。しかし現代においては概ね忍者=忍の認識が大勢を占めています。では貴方は何故始めから忍と書かなかったのですか?それを今頃忍だからと書かれても・・・こんな言葉遊びみたいな事していてもまったく建設的ではないと思いますが?
>忍術って、武道・格闘技ですよね?伊賀甲賀とは関係ない。・・・この辺の認識が既に間違えでは?主に医師が医療行為につかう技術を医術と言いますよね。で肝要の忍術ですが、主に忍が使う業=忍術であり、それは武道の一部でもあります。戸隠流忍術三十四代目継承者初見良昭氏などを良く調べてみて下さい。また伊賀流忍者博物館の書籍、掲示物の至る所に忍術という記述がみられます。(その他武芸流派大事典 綿谷雪・山田忠史 出版社 東京コピイ出版部には忍術が武芸として書かれている。
>黒脛巾組は、修験者であるということは、伊達秘鑑に記述はない。
何度同じ事を書けば良いのでしょうか?私は忍=修験者とは一度も書いておりません。 ただ出羽山形の忍には羽黒流というのがあり、まさに出羽修験道系忍として存在しておったようです。そして江戸期にはこの流派は秋田佐竹の久保田藩に属する武士となった模様。佐竹に抱えられる前はフリーの集団として活動していたと考えるのが自然かなと思っています。(ただしこれに関しては私も現在調査中ので参考程度に)
>黒脛巾組と直接関係のない話を推測調で長文で唐突に冒頭に挿入するのは、おかしい。
推測調・・・これに関しては正直かなり悩みました。ただ民間伝承や忍者関係者の記載なき言葉を出典無しとして全て葬り去っていいのか悩んでいたのも事実。改善の余地は十分あると思います。
長文で唐突に冒頭に挿入・・・そう思われたのなら何故削除という手段でなく、編集で自分の納得行く場所に移動させるなりしなかったのですか?それが不思議です。結局未だに貴方は、私が忍=修験者と書いていると書かれていますが、貴方にそういう認識があるので、それさえしないで編集部分全文削除したのではないですか?
まず私は忍=修験者などと一言も書いていないのに、何故貴方は未だにそれを言うのか?それを貴方がきちんと説明しない限り、私は到底納得できませんし、貴方の話も矛盾を抱えたままになるでしょう。
追伸 221.119.111.173 の私は今回コレを期にアカウントとりました。以後このネームでいきます。--あずまえびすっ子 2008年12月25日 (木) 14:48 (UTC)
この論争にかなり時間がたっている様子ですが、史料からも黒臑巾組の存在は否定出来ませんし、またその活動内容からも伊達の忍者集団ということも否定できませんので、この論争はひとまずここで決着といたしまて、以後は例えば太宰金七という人物の実在とかの、より詳細の方に向けていただきたく思います。--125.192.86.20 2010年11月22日 (月) 09:24 (UTC)
このページほとんど独自研究ですね。伊達秘鑑は軍記物、軍記物は基本的に小説です。戸隠流三十四代目という話が出てきてますが、実際は1代前までしか遡れないモダン流派ですので、根拠として使うのはどうかと。修験者と忍者が関係が深いというのも後世の創作の範囲ですし、山があるから忍者が発生するという理論も意味不明です。じゃあ長野は忍者だらけだったのかと。--池田5535(会話) 2013年2月8日 (金) 05:56 (UTC)