ノート:黄金の床几戦争
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本項目は、武蔵大学で2017年夏学期に行われた英日翻訳ウィキペディアン養成プロジェクトクラスにより作成された記事です。記事についての一般的な議論はこちらのノートで行っていただけますと幸いですが、学生が作成した版について、著作権や記事名など大きな問題がある場合はクラスの指導教員である利用者:さえぼーまでご一報ください。--さえぼー(会話) 2017年7月6日 (木) 01:27 (UTC)
- ヴァさん、さえぼーさん、翻訳ありがとうございます。期間が終わったようなので、セシル・ハミルトン・アーミテッジのThe Ashanti Campaign of 1900、Sands & Co. 、1901を参考に手を入れてみました。
- 英語版でも見られますが全体的に表現の選択が現代的なバイアスのある極端な表現がみられます。
- 用語を中心に修正しましたが、中には元の英語版の時点でなぜか間違っているものがありました。
- イギリス人の高官が勾留は不自然ですが、わざわざLeaderとしていることからアシャンティ側です(当時複数の王が留まっていました)。さらに英語版の間違いですが、アシャンティ側も一枚岩ではなく、これらの王はイギリス側であり、勾留どころか防衛線の一部を担っていました。
- 「子供たちを連れて町へと入城」。この子供たちは、ミッションスクールの児童で、宣教師に連れられてレディ・ホジソンを出迎えています。これはその後のビューグルを演奏しながら進んだ件との混同でしょう。
- リーダー→これは、諸王と族長です。アシャンティの部族の王と族長が集まっていました。
- 「ヴィクトリア女王が受け取るべきだと」。これはもっと重いというか、たちが悪いというか・・・・・・。同席したセシル・ハミルトン・アーミテッジの証言では、黄金の床几のありかを問い、ヴィクトリア女王の代理であるホジソン自身に渡すことを求め、軍事力で威圧しています。BBCではもっと直接的に、ホジソン自身が座ろうとしています(Adu Boahenの著作でも同様の模様です)。日本語出典のホジソンの報告は、事後のホジソンの弁明と考えた方がよさそうです。
- 「暴風雨のせいで」これは出典を欠いています。また、この部隊が直面したのは霧です。ここは単純に除去しました。
- 当時の写真を見るとわかるのですが、壁の穴は意図的に開けられた銃眼です。保有していた小型砲は7ポンドなのでRML 7 pounder Mountain Gun、この他ノルデンフェルト式機砲も有していたようです。
- 以上、ざっとです目を通してみましたが、毎度の事ながら翻訳元の問題も大きいですね。--Open-box(会話) 2017年7月20日 (木) 07:47 (UTC)
- どうもありがとうございます。あまり詳しくない分野ですので、大変助かります。日本語出典は私が付け加えましたが、あまりよくないようでしたらどんどん変更していただけますと幸いです。--さえぼー(会話) 2017年7月20日 (木) 07:58 (UTC)