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ノート:鳴梁海戦

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海戦全般

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早速編集してしまいましたが文章が乱れ気味なので修正をお願いします。 何故か無視されていますが、鳴梁海戦の直後に李舜臣が撤退したため、日本水軍も全羅南道西岸を制圧して、姜コウなどを捕虜にしています。病気の池田秀雄が珍島で病没したというのも、陸軍大名の池田が病気のために急遽船便で後送する必要があったためではないでしょうか? yasumi 2006年6月16日 (金) 13:40 (UTC)[返信]

 早速の加筆訂正ありがとうございます。全羅南道西岸の制圧については無視したと言うよりは手持ち材料が乏しかったのでサラッと流したというのが正直なところです。(^^; 池田秀雄については理に適った推測だと思いますが、残念ながらそのあたりに言及したものを見たことがありませんのでなんとも。暇を見てぼちぼち他の項目もたてていきたいと思ってますのでまたフォローよろしくです。Jinzuu 2006年6月16日 (金) 17:01 (UTC)[返信]

海戦の評価

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「結果: 朝鮮水軍の局地的勝利」   日本水軍の勝利の間違いでは?朝鮮水軍は日本水軍の戦闘部隊を叩いた後に李舜臣の率いる大型艦のみ撤退していて残存鑑定は日本水軍に撃破されている。鳴梁海戦は朝鮮水軍を破って日本水軍が鳴梁通過を成功させた海戦です。この海戦で鳴梁海峡の制海権は日本が握って両岸を攻撃したり黄海側へ進出しています。

 「高山公実録」などを見ると、苦戦し追撃もできなかった旨の記述があって、日本側は海戦自体は決して勝ったとはみていなかったように思えます。小競り合いでの朝鮮側の勝ち逃げ(=局地的勝利)というのが中立視点で妥当なところじゃないでしょうか。
 ところで”李舜臣の率いる大型艦のみ撤退していて残存鑑定は日本水軍に撃破”の出典は何でしょうか? 教えていただければありがたいです。Jinzuu 2006年9月6日 (水) 15:00 (UTC)[返信]
 来島通総戦死、毛利高政と藤堂高虎の負傷の根拠としてよく示される「高山公実録」ですが、本文を良く読めば終日には海峡を突破したことが記録されています。風を見すまして海峡を突破し、帆をかけて追撃したが追いつかなかったと書かれていますよね?
毛利高棟文書でも海戦は最終局面では「大風」が吹いて番船は逃げ去り、暮れに及び番船小船数艘を焼き割る。 とあり、海戦後に水軍基地の右水営を占領しているようです。
 また、「看羊録」にも避難中の姜コウが訪問先での情報として、9/20と9/21に李舜臣は衆寡敵せずに西上してしまった、統制使は十数隻の艦隊を率いて西上してしまった、と記録されています。置き去りにされた船は追いつけないですが・・・
 閑山島海戦の脇坂艦のように大型艦で漕ぎ手が多数乗っていれば機動性が上がって戦場からの離脱もやりやすかったのではないでしょうか?
 潮流は時間と共に変化しますし、李舜臣が有利な潮流へ囮で誘った関船ばかりの日本の先頭部隊への攻撃を成功させた後、優勢な日本水軍が朝鮮水軍の残存部隊を掃討して鳴梁海峡を掌握したのが鳴梁海戦の実態だと思います。
 私も緒戦の攻撃成功だけを切り取って海戦結果を「朝鮮水軍の局地的勝利」と呼ぶのことは疑問だと思います。yasumi 2006年9月7日 (木) 00:23 (UTC)[返信]
 毎度お世話様です。あまり日本側の勝利勝利と書き立てるのも、英語版のウリナラマンセー記事の裏返しみたいなもので(無論、実際にはソースレスのウリナラ主張と同列には論じられませんけど)、ちょっとどうかという思いはありますので、個人的にはある程度抑え目のトーンの方が良いのではなかろうかという気はしてますけど、どうでしょうか。
 といっても、実のところもともと私の使う”局地的勝利”というのは”大局的には敗北”というのと同義、というニュアンスのつもりなんですが。(笑)
 ところで、「高山公実録」の”風を見すまして瀬戸口を抜け”という行は朝鮮船(番船)についての記述であって日本側はそれを追えなかった、と読むべきかと思いますが。
『みなとのやうす、ばん船能存候に付、風を能見すまし、其せと口をぬけ、帆をひきかけ、はしらせ申について、是非なくおつかけ申儀もまかりならず』(現代語拙訳:湊の様子を番船は良く知っていたので、風を良く見すましてその瀬戸口を抜け、帆を上げて走らせ(て逃げ)たもので、(我が方は)どうしようもなく追いかけることもできなかった) Jinzuu 2006年9月8日 (金) 11:39 (UTC)[返信]
高山公実録で関係有りそうなのは8/26の鼻受け状の影響か9/16の鳴梁海戦と混同したような記述もありますが下記の通りです。
 同き二十六日公熊川水淵にて辰の刻より酉の刻まて大に舟戦して敵を破る斬取首三百八十余此時新七郎良勝勘解由氏勝孫八郎忠重等功あり
[黙記]みなとのやうす、はん船能存候に付、風を能見すまし、其せと口をぬけ、ほをひきかけ、はしらせ申について、是非なくおつかけ申儀もまかりならず
[寛永系譜]其後熊川水淵にいたり敵船と相戦ふて高虎疵をかうふり郎従おほく死すとも終に敵船を追散す
[行状]到2熊川水淵1而舟戦公被レ創身如2刻漆1士卒多死敵船咸沈溺
[新七郎家乗]御帰朝前こもかいへ御越被成候刻すいゑんと申所にて船軍の時たにのわせきと申自分船へ高山様被為召御高名被成候刻働申候
[勘解由家乗]慶長二酉年高麗御陣の節御供仕高麗番船の内へ一番に乗付打かきを以て大船へ移り烈き働仕候由右働の様子太閤様御旗本御横目毛利民部大輔殿目前にて御働候故御見届高山様へ御直に委細被仰達依之為御褒美御名字拝領仕候
(引用終わり)何れも戦況は日本水軍が苦戦の後に海峡を確保して残敵を掃討しており、勝ち戦ではないでしょうか?(李氏朝鮮側から見れば日本水軍の)上記のご指摘で、帆をかけて海峡を抜けたのは敵船のようで私の間違いした。しかし日本水軍も「おつかけ申」と追撃をしたことが書かれており、敵船が逃げて海峡を確保したと解釈してよろしいかと思います。
そして月報海上録、看羊録ともに海戦直後の掃討による全羅道西岸の捕虜移送は海路が使われていることが書かれています。
また毛利高棟文書には以下の通り記録されているようです。
9/16『藤堂高虎・脇坂安治・菅達長・藤堂宮内少輔・菅三郎兵衛尉・菅右衛門八・加藤嘉明、「番船」・「大船」14艘、「小船」数百艘が駐屯している水営城を襲撃する。毛利高政・藤堂高虎は「番船」に切り込み、毛利高政は2ヶ所手負をうけ海に落下。「大風」が吹いて番船は逃げ去り、暮れに及び番船小船数艘を焼き割る』
9/17『藤堂高虎・脇坂安治ら、前日の戦場を見廻り、敵船の皆無を確認する』
9/18『藤堂高虎・脇坂安治・菅達長・藤堂宮内少輔・菅三郎兵衛尉・菅右衛門八・加藤嘉明、増田長盛・石田三成・長束正家・前田玄以へ全羅道川口における戦況を報告する』yasumi 2006年9月10日 (日) 06:52 (UTC)[返信]
 史料提示お疲れさまです。翌日には海峡を確保したと言うことに異存はないのですが、私としては、”朝鮮水軍の局地的勝利”とするのが適当かどうかはともかく、朝鮮側からすれば劣勢ながら地の利を生かして日本軍先鋒に打撃を与え、主力の撤退を成功させている訳ですから退却戦としては充分成功していると言えますし、また、当時の情勢からすれば、右水営は日本の陸軍部隊が進出してくれば遠からず放棄せざるを得ないので、そもそも鳴梁海峡の確保というのは朝鮮側の作戦目的にはなかったものと考えます。(「乱中日記」に『欲泊戦海』というフレーズはありますがこれは退却の事実を糊塗するにあたっての修辞ととるべきものでしょう 留まるのであれば右水営が至近にあった訳ですから)
 ですから、この海戦は日本水軍が朝鮮水軍の主力を捕捉撃破していれば文句無しに日本側の勝利といえたでしょうけれど、朝鮮水軍主力をとり逃した後に放棄された地域を確保したことを以て”日本水軍の勝利”としてしまうのは、身びいきに過ぎてやはり中立視点が担保されないように思います。Jinzuu 2006年9月11日 (月) 14:52 (UTC)[返信]
ですから局地的勝敗という評価自体が中立的観点から外れていると思います。朝鮮水軍は日本水軍の中型艦で構成された先頭部隊に有効な攻撃を加えた後に日本水軍本隊に衆寡敵せず退避したし(地の利を生かした攻撃と離脱成功)、日本水軍は本隊を以て退避できなかった残存艦艇の撃破と右水営基地の攻略に成功した(侵攻作戦を成功させた)。
現在の本文のように鳴梁海戦を「朝鮮水軍の戦術的勝利」としか評価しないということは、ミッドウェー海戦の機動部隊のミッドウェー島の攻撃成功と基地航空部隊の迎撃成功だけを切り取って評価し、海戦後半を評価せずに「戦術的勝利」と勝するのと同様かと思います。
全州会議で日本水軍に与えられた侵攻目標は咸平、務安、珍島、興陽ですので、鳴梁海戦による海峡突破と黄海進出で作戦目標は達成されたのではないでしょうか?当時の水軍は直接戦闘を行う艦隊だけでは行動を維持することが出来ず、補給と休養、打ち合わせをする根拠地と支援する人員組織があってこそ維持運営可能なのが水軍です。有力軍船の脱出のみを以て艦隊戦力が保全されたとは言えず、右水営に残した人員や資材等の李舜臣の失った物は大きかったのです。
また戦況を考えれば鳴梁海戦の前日が井邑会議であり、まだ日本軍が全羅道南部を制圧するかどうかは李舜臣には評価不明であり陸戦の圧力のみで右水営を放棄する理由にはならないと思われます。
やはり正面の日本水軍の圧力が李舜臣の艦隊のみの後退をもたらしたのだと思います。李舜臣が成功していたのは鳴梁海峡における局地戦の更に局時に限定されているのです。yasumi 2006年9月13日 (水) 07:11 (UTC)[返信]
時間が経過したので現状「結果: 朝鮮水軍の局地的勝利」となっていますが再度提議します。また鳴梁海戦の範囲について。
上記の議論なども鑑みても納得できません。乱中日記を見ても高山公実録を見ても朝鮮水軍は来島等を戦死させた後に小型軍船や出撃拠点である右水営基地を残して大型艦のみを率いて撤退しています。
海戦によって鳴梁海峡の制海権は日本水軍が確保、高山公実録にもあるとおり即日朝鮮水軍を追撃しており、翌日以降の残敵掃討と右水営の制圧までが鳴梁海戦ではないでしょうか?
鳴梁海戦を李舜臣の攻撃が成功した場面のみに限定するのは間違っていると思います。
朝鮮水軍が12隻あるいは13隻のみと表現されることも多いですが、乱中雑録にも百隻余りの参加が記録されており、時間の経過と地理的な後退による友軍結集そして金億秋等の人的増援記録を考えれば、漆川梁海戦の残存艦艇のみで戦っているとは思われません。
姜コウの「看羊録けにも来島は当主が討ち取られても後継者が軍勢を引き継いで基地を守って従軍を続けたと記録されています。yasumi 2007年4月16日 (月) 07:15 (UTC)[返信]
申し訳ありません。テスト期間だったから遅れました。
おっしゃった乱中雑録は趙慶男の乱中雑録ですか?でも原文には「避乱舟子百余隻佐後声援」と記録されていますが・・・避乱舟も、戦力ですか?
私は日本側の記録と韓国の記録、並記して方が良いと思います。そうだから'「乱中日記」では'と書きました。
そして "しかしながら、韓国側の見方では(・・・) "の部分、私は嘘だと思います。大部分の韓国人たちはそんな途方もない言葉は主張しないです。sielrace 2007年4月18日(水)15:23
sielraceさんの上の引用は少し間違っていますよね?趙慶男「乱中雑録 巻七」には「避乱舟子百余隻在後●援[●=偏は上の下、傍は羊]」と戦力になっています。それとも主力艦以外は戦力ではないのですか?
韓国側の評価と解釈についてはここの一番下の英文コメントでも主張されていますよね。さらに去年放映された韓国の歴史ドラマ「不滅の李舜臣」でも鳴梁海戦では鉄鎖を使って日本水軍を壊滅に追いやって陸軍を含めた慶長の役の大攻勢を撃退したと解釈されています。またウィキペディアでも下記の通りです。
1.例えばハングル版の鳴梁海戦を翻訳すると、
バトルボックスの日本側被害欄「戦船31隻撃沈、92尺破損及び大破、12000人余り死傷と推定」
2.同じく本文の結果欄「日本軍は133隻中31隻を失った。これで水陸併進戦略は挫折し、日本軍は 内陸への侵攻が出来なくなって南海岸一帯に相互支援可能な距離内に分散して倭城を築いて居座るしかなかった。以後、丁酉再乱で居座る日本軍を朝鮮・明連合軍が水陸両面で挟撃する攻城戦へ移った。鳴梁海戦は朝鮮の戦略的勝利だった。
しかし、この戦闘の敗北が日本軍に与えた心理的打撃は更に大きかった。特に、漆川梁海戦で勝利した直後に僅か13隻の李舜臣に大敗れたという事実に残された戦力(破損された約90隻は修理後に使用可能)で李舜臣に対抗することを以前より更に恐れたことで推測できる。
以後、戦局が移って約2年間に大きな海戦は起きなかった。最後の海戦である露梁海戦が起る時までの約2年間に海戦は3回を記録したし、それ以外にも水軍は陸軍と協力して南海岸一帯の倭城攻撃に参加したのだった。
(勿論、明の和平交渉の努力によって小康状態にあったことも海戦が少なかった理由である)
3.英語版の鳴梁海戦バトルボックス欄日本側被害「沈没31隻と約92隻の船が使用不可、死傷者8,000から12,000人」yasumi 2007年4月21日 (土) 10:41 (UTC)[返信]
> 私は日本側の記録と韓国の記録、並記して方が良いと思います。そうだから'「乱中日記」では'と書きました。
既に本文中に併記してある以上、表にまで併記する必要があるとは思いません。また、一見もっともらしい言い分のようですが、実際には、朝鮮側の損害を”2人”などという明らかに誤っているものに繰り返し書き換えるのは単なる荒しとしか見なされませんよ。 Jinzuu 2007年4月22日 (日) 03:39 (UTC)[返信]
yasumiさん、あの漢字は'声'の韓国式略字です。応援している避難民の舟まで全力で見られないです。避難民の舟を戦力が多いことのように見えるようにしようとする作戦があることはしましたが, 全力だと見るには無理と思います。
韓国側の評価と解釈については私が過ち読んだのでした。申し訳ありません。
Jinzuuさん、鳴梁海戦の死亡者が34人だと言う韓国の本もありますが根拠がなくて確認することができなかったです。申し訳ありませんが本文に'韓国側主張の反駁'などで入れてくださることはどうでしょう。--Sielrace 2007年4月26日 (木) 09:52 (UTC)[返信]
まずsielraceさんはこのページの他のログ(特にYasumi 2006年9月10日 (日) 06:52 (UTC))を読んで理解した上で発言しているんですよね?
それでは質問、ご主張の漢字が「声」の略字体であるという根拠は何ですか?字画から言って略字ではないですよね?何を調べてそのようなことを言っているのですか?根拠を教えて下さい。例えば私は大漢和でこの字を引いています。
次、「声援」と言うと現代日本では一般に声を出して応援することを意味しますが、それとは違って中国や朝鮮では「声援」はもっと積極的な意味となりますよね?それとも現代韓国語を引き合いに出しているのですか?
どちらにしろ陽動や牽制に使われ、そして何より李舜臣が動員し得る戦力であり、日本が征服すべき対象となっていることには違いがないと思います。片や李舜臣が報告を受けた日本船133隻の内容も同程度に戦力として評価するには不確かです。此方は不明確なので削除し、片や不明確なまま記載するのは如何かと思いますし、賛成できかねます。yasumi 2007年4月27日 (金) 03:55 (UTC)[返信]
34人というのは以前に英語版Wikipediaで韓国側の編集者が主張していた数字(現在は別のものに変わっています)ですので、Sielraceさんがご存知のより妥当性のある数字があればそれを提示していただいてもいいですし、適当なものがなければ”不詳”としておくのが良いでしょうか。なお、韓国のサイトなどでしばしば主張される”死亡2人 負傷3人”という数字は「乱中日記」に記述のある李舜臣の乗艦のみの死傷者数ですので、念のため申し添えておきます。
ついでですが、Yasumiさんから既に指摘があるように”声援”はそもそも軍事行動の一範疇であって、現在の用例で解釈すべきものではないですね。例えば晋州城攻防戦でも全羅道義兵が声援を行って攻囲中の日本軍を牽制したという事例があります。鳴梁海戦について考えれば、押し寄せる日本の”圧倒的な大艦隊”を迎え撃つ”ごく少数”の朝鮮水軍の後方で民間の避難船が観戦しつつ応援するなどという悠長な状況があり得たはずもありませんから、”避乱舟子百余隻”というのは戦艦に相当する大型船(板屋船)以外の中小の支援艦船を後方において、牽制、あるいは戦闘の推移によっては戦闘参加できるように待機させていたものでしょう。 Jinzuu 2007年4月27日 (金) 14:31 (UTC)[返信]
少し過ちがあったようです。日本式漢字を使ったんですが,やっぱり旧字体を使わなければならなかったようです。あの漢字は'聲'の韓国式略字ですです。中国にもない略字で, たびたび朝鮮時代の個人文集で見られると言います。
確実に'声援'は''応援'より積極的な意味で使われたんです。(現代韓国語でもそうですが。)避難民の舟がどんな役目をしたのか他の記録でよく見れば遠くに竝んで数が多いことのように偽装したと書かれています。(「李忠武公録」、「李忠武公行狀」、「宣廟中興誌」、「忠愍詞記」)武装もしない避難民の舟を戦力に含ませることは穏当ではないと思いますが、戦力に含まなければならなかったら説明もなければならないと思います。
朝鮮側戦死者について記録を探して見ても「乱中日記」の大長船戦死者外には出ていなくて'34人戦死'が日本側記録ではないか思ったんですが。。。--Sielrace 2007年4月30日 (月) 11:55 (UTC)[返信]

バトルボックス改訂について

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鳴梁海戦を私は海戦の範囲を初日の戦闘と朝鮮水軍の撤退、二日目の右水営攻略までと見て評価し、バトルボックス内の記事を下記の通り書き換えたいと思いますが、ご意見をお願いします。
(細かいことは両論併記と出典引用で本文に引用すれば良いと思います。陸側の経過も同じなのですが、この時期の日本軍は8月から11月までの短期間の進撃進出と冬を前にした明軍南下の気配を察知した回頭撤退を行っているため、明・朝鮮側では日本軍の撤退を自軍作用とする論調が大勢ですし)
↓バトルボックス改正案
結果: 朝鮮水軍の局地的勝利→日本水軍の勝利(但し先鋒は敗北)
指揮官日本側: 毛利高政は軍監なので主要指揮官ではないのでここには書かない方がよいのでは?逆に菅達長を入れる?
朝鮮側: 金億秋(全羅道右水使)を追記。
戦力日本水軍: 不詳
戦力朝鮮水軍: 不詳
損害日本側: 戦死 来島通総、得居通年、菅正陰(先鋒部隊)
損害朝鮮側: 損失 鳴梁海峡の制海権、右水営基地yasumi 2007年4月25日 (水) 23:42 (UTC)[返信]

結果を日本軍の勝利とすることには明確に反対します。日韓ともに鳴梁海戦は朝鮮側の勝利と解されているのが一般的であり、Wikipediaが百科事典と銘打っている以上、総論・概論に相当する部分での通説・定説に反する主張は慎むべきでしょう。本文中に解釈の一つとして併記・付記することは構わないと考えますけれど。
同様に、右水営攻略までと解釈するのも反対です。理由は先述のとおりですが、日本側の視点のみの恣意的な解釈であり明らかにPOVと見なされると判断します。
その他の項についてはより妥当なものに差し替えることは同意します。毛利高政をはずすことに異存はありません。菅正陰が戦死していますので菅勢が参加していたことは間違いありませんけれど、菅達長自身が参加していたのかどうかは寡聞にして知りませんので、それに言及した史料があるのでしたら無論構わないと思います。戦力については全くの不詳とするのではなく、双方の側の史料に基づいたものを目安としてあげておく方がベターのように思います。日本側については自分で書いておいて今更言うのも何なのですが40隻の史料での裏づけはとれていないので「高山公実録」か「日本戦史 朝鮮役」のものを、朝鮮側は「乱中日記」の数字でいいのではないでしょうか。Jinzuu 2007年4月27日 (金) 13:50 (UTC)[返信]
それであれば「"通説では"朝鮮水軍の勝利」と条件が付くべきでは?「李舜臣の勝利(あるいは来島通総の戦死、藤堂高虎の負傷)」を言い換えて「朝鮮水軍の勝利」と範囲を変えたニュアンス操作されているように見えます。
私には通説こそがPOVと思えます。なぜなら李舜臣の勝利を認定させる為に制限した海戦の部分局面だからです。「懲毖録」「乱中日記」「乱中雑録」などを根拠とする朝鮮の評価と、それを輸入した日本の評価は海戦軽視、研究不足、部分抽出によるものですよね?
まず、「日本水軍の侵攻があり、彼らは通過制圧済みの興陽を除いて、珍島・務安・咸平への進出を目指していました。李舜臣は緒戦で壊滅した残存軍船を再編しながら後退を続けており、鳴梁で日本の先鋒に一撃を加えますが本隊の進出には衆寡敵せずと主力艦のみで離脱、その結果支援艦艇などが日本水軍の餌食となり鳴梁海峡の通行を許しました」鳴梁海戦は狭義で考えてもここまで含まれるのではないでしょうか?海戦が続いてるのに何故李舜臣の活躍のみに海戦を限定するのでしょうか?李舜臣は艦隊維持や軍船の建造と整備を行う基地や主力艦以外に対する保全には成功していません。yasumi 2007年5月7日 (月) 03:59 (UTC)[返信]

Japan's POV?

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I'm Korean user and I cannot speak Japanese so I write in (poor) English. L

ook at the article "Battle of Myeongnyang" in English edition. Isn't it too different from that and this Japanese version?

I read Jpn. article through Jpn-Kor mechanical translator, and this article says, "No strategical significance". And what the heck, in the Eng. ver(chap. 3 "Aftermath"), it says "The immediate results of the battle were a terrible shock to the entire Japanese command.".

Even more, in this article, in 戰力, Jpn's force is middle-sized ships 40 warships, but in the english ver, "at least 333 warships". (and this references following links:[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10])

So, I think this article is based upon Japan's point of view, and I want to hear the Japanese people's opinion about this.

Thanks. --211.214.207.197 2007年1月4日 (木) 02:42 (UTC)[返信]

朝鮮側戦力及び損失訂正について

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戦死34人は根拠がないので削除しました。偽装用の船を戦力と思わないが、戦力で見る視覚もあるので説明を付け加えました。

 私見では、約100隻の後方の船というのは軍船主体と考えていますけれど、現在の史料ではなんとも判じ難いですから、とりあえず編集に異存はありません。
 しかし、鈍重な主力艦が十数隻も離脱できたということであれば、それに数倍する中小の艦船が鳴梁海戦時に在ったと言うことは常識的に考えて当然のことのように思いますから、100隻が全て民間船舶というのは納得しがたいというのが正直なところです。朝鮮側の記録は自軍の戦力(艦船)は板屋船のみの隻数であって、逆に日本側の艦船は中小の艦船を含む隻数であるように認識しています。 (なお、見出しを分かりやすいように修正しました)Jinzuu 2007年7月6日 (金) 20:15 (UTC)[返信]
修正、ありがとうございます。
ところで、趙慶男の「乱中雑録」だけでなく柳成竜の「懲毖録」にも似ている記録があります。学校の図書館で捜したから正確な出典は思い出さないですが、他の本にも似ている記録があります。(要請したら捜してあげます) それなら背後の100隻を避難民の船で見ることが妥当だと思います。--Sielrace 2007年7月7日 (土) 14:05 (UTC)[返信]
約百隻について偽装用と特定する表現も良くないと思います。当時の船はある程度の改造で戦闘に使えますし。小さな船でも直接戦闘意外に艦隊を機能させる為の支援に必要ですから。元が避乱船であろうと海戦に利用し参加した船なのでその他の方が妥当だと思います。
漆川梁海戦から離脱してきた裵楔の大型軍船十数隻と避乱船だけが強調されていますが、その他漆川梁で逃散した残存船、基地付の船、忠清道方面からの増援と実際にどれだけの水軍戦力が居たかは確定的ではありません。
そして乱中雑録も懲毖録も同じ情報源からの記載ではないでしょうか?yasumi 2007年7月12日 (木) 06:58 (UTC)[返信]
そうだったら、「朝鮮側の記録」の部分だけを残しておいて戦力の部分は以前のように修正するのはどうですか?
朝鮮側の記録の大部分でそのように記録されているからです。--Sielrace 2007年7月12日 (木) 11:42 (UTC)[返信]

保護

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Battlebox内の結果欄の記述を巡って編集合戦になっていたため60日間の保護を行いました。--三日月 2008年2月8日 (金) 06:51 (UTC)[返信]

保護解除

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荒れてるようですが、これは「通説では朝鮮水軍の勝利」に戻すべきでは? 「通説」を抜く人も問題ですがあろうことか全く違う内容にするのはいかがなものかと? 日本軍の勝利かのように語っている人はかつて議論を重ねて戦闘結果に納得をしているのに、いったいこれは何の冗談なんでしょうか?保護解除を依頼するべきでしょう。 --Eriotipaizer 2008年2月10日 (日) 12:23 (UTC)[返信]

朝鮮側の勝利に戻すことには賛成です。 なお、解除後の史料に反する編集に少し再修正をかけましたが、編集途中でうっかり書き込まれてしまったので、履歴がちょっと見苦しい形になってしまいました。お恥ずかしい。^^; Jinzuu 2008年4月11日 (金) 07:15 (UTC)[返信]
勝利や敗北は基準と範囲を何処に設けるかで評価の代わる物なので単純に「朝鮮水軍の勝利」とすることには反対です。もっとも朝鮮の大勝利という評価は朝鮮からの輸入品ですけどね。損害比を比べるにしても日本の先鋒船団と朝鮮の残存船団では物差しによって変化してしまいます。客観的には、日本水軍の目的である海峡通過が達成された海戦でした。--yasumi 2008年4月11日 (金) 23:13 (UTC)[返信]
私の見解は従前通りですが、やはり朝鮮水軍は日本側に打撃を与えた上に戦力温存に成功していますので、それは撤退戦における勝利として評価されてしかるべきだと思います。海戦後の日本側の海域支配について付記することに異存はありませんが、”制海権”という表現が適当なのかは、マハン以降の近代的な概念と混同しやすいのでちょっと疑念ありです。 Jinzuu 2008年4月13日 (日) 10:32 (UTC)[返信]
確かに制海権なる言葉は語弊を招くかも知れませんね。なお鳴梁海戦では「日本水軍は海峡通過」「朝鮮水軍は艦隊温存」をそれぞれ目的としており対称戦ではないので単純な勝ち負けを結果とすることに反対です。空欄または両論併記が好ましいと思います。--yasumi 2008年4月16日 (水) 13:30 (UTC)[返信]

本文 2009年3月31日 (火) 08:00(UTC)の版に加筆された個人的意見をノートに移動

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  • しかし、それでは「高山公実録」のマタジ=来島通総、という記録はどうなるかという疑問と、さらに肥後・松浦党の波多信時もなくなっている。これもまた波多親(ハタシン)とも呼ばれてましたので「マタシ」に近い音です。現地では、珍道が来島通総説の墓があり、海南では正陰の女だったという人の墓があります。今でも地元では供養されています。しかし、波多信時は両者よりも長い歴史的な関係を全羅南道海域と持っておりますので悲劇の武将三人は大いなるドラマがある。—以上の署名の無いコメントは、IPユーザ 150.32.55.136 さんが2009年3月31日 (火) 08:00 (UTC)]に投稿したものです。( Jinzuu 2009年3月31日 (火) 11:30 (UTC)による付記[返信]
「高山公実録」にはマタジ=来島通総などという記述は全くありませんし、波多信時は鳴梁海戦で戦死してはいません。思い違いではないでしょうか。なお、とりあえず併せてこちらに移動しましたが、波多親(ハタシン)説については、又四郎説と同様に出典提示の上で書き戻していただければと思います。 Jinzuu 2009年3月31日 (火) 11:39 (UTC)[返信]