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ノート:高橋瑞子

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初版投稿者です

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高橋瑞子#関連文献に挙げました『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』(ISBN 978-4-12-005320-7)は、手近で読むことができず、情けない話ですが買うにも少々予算が足らず、未見です。貴重な評伝と思われますので、どなたかお持ちでしたら、こちらの書を用いての加筆修正、歓迎です。よろしくお願いいたします。--逃亡者会話2020年9月23日 (水) 22:36 (UTC)[返信]

上記の文献を拝見できました。著者の後書きp230に「資料の乏しい箇所は想像をまじえて書いた」とあり、どこが想像の混ざった箇所かわからず、出典に用いるのはどうか……と考えられました(純粋に読み物としては面白いのですが)。となると同書の著者は、今回の出典に用いた婦人公論の著者でもありますので、このサイトも信憑性はどうか、と思い直しました。差当り別の書で出典差替えな箇所は差替え、すぐに差替えられない箇所は自らTemplate:信頼性要検証を貼らせていただきました。後ほど別の文献を用い、内容を再検証させていただく所存です。よろしくお願いします。--逃亡者会話2020年9月28日 (月) 09:16 (UTC)[返信]
東京新聞の記事で田中ひかる氏のその著書は記録と脚色を交えたノンフィクションノベルで描いた、とありました。婦人公論の記事は出典は同じ著書ですが作品の形態についての明記はなく、単なる著書の抜粋ではないように受け取れますが、どうなんでしょう。--図書助会話2020年9月28日 (月) 13:33 (UTC)[返信]
東京新聞での情報、未見でした。情報ありがとうございます。婦人公論サイトのp4でこの著書『明治を生きた男装の女医』が紹介されていますので、悩みどころです。現在のところ、田中氏の記述にあって他の書にない情報はどうしたものかと考えているのですが、それらの内、たとえば高橋瑞子#帰国_-_日本での再開業で「ドイツからの帰国後、産科で貧窮者を救った」は、婦人公論サイトp3、および『明治を生きた~』p189にあり、後者に「新聞記事に広告を掲載した」とあります。だとすれば当時の新聞をあたるなどして、これを著者の脚色ではなく事実だと検証できるのでは、と考えております。同書巻末には参考文献が羅列されていますので、地道に裏をとって行きたく思う所存です。--逃亡者会話2020年9月28日 (月) 20:12 (UTC)[返信]

インデントを戻しました。3週間以上も経ってしまいましたが、2020年9月30日 (水) 08:51 (UTC)差分)でコメントアウトさせていただいた要検証内容、他の出典で裏付けしつつの検証結果です。

  • 産婆から医師へ転身の理由は、産婆では救いきれない命があることを痛感したため
    • 日本看護歴史学会の『日本看護歴史学会誌』第27号「産婆・女医 高橋瑞の生涯」(NAID 40020135374) p89に、「産婆と医師の違いを学んだことで、産婆としての知識や技術に限界を感じ、母子の命を救う職業として医師を目指した」との説が述べられていました。
  • 骨格標本の主材料となる合成樹脂は、当時はまだ貴重品であり、標本は本物の遺骨か、または木製の高級品しかなかった
    • 『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』の後書き、p227-228にありました。物語本編の内容ではなく、田中ひかる氏が本作品制作の背景を述べている内容ですので、この程度は出典に用いて差し支えないか、と考えます。
  • 済生学舎で苦学した当時、食費の節約のために、炒った豆を持ち歩いて空腹を凌いだ
    • 『明治を生きた~』p135にある記述ですが、他の資料には確認できませんでした。当時の食事での苦労話は、島本久恵氏の著書『明治の女性たち』(NCID BN02544140)p85に、「食事といえるほど食べることができなかった」とある程度でした。他に、 高橋瑞子を主人公とした漫画、一ノ関圭氏の短編集『らんぷの下』(ISBN 978-4-09-192461-2)収録の『女傑往来』p116で豆を食べる場面がありますが、別に「節約のため」との描写はありません。そもそもこの漫画は『ドクトルたちの奮闘記』p257で、石原あえか氏により「フィクションの部分が多い」と指摘されており、出典とするには難があると感じました。
  • 順天堂での研修で、聴診器を買った理由「こちらの方が役に立つ」
    • 『明治を生きた~』p147にある記述ですが、やはり他の資料には確認できませんでした。しかし現記述のまま、理由「手元を離れた金だから」でも、意味が通るかと思われます。
  • ドイツ留学、「死んでもいいから行きたい」と、周囲の反対を振り切った
    • 『明治を生きた~』p162にある記述です。前掲『ドクトルたちの奮闘記』p151に「死んでもいいから行く」と記述がありました。
  • ドイツからの帰国後、「産科に限り貧窮者無償施療」という広告を出した。
    • 先述の通り、『明治を生きた~』p189にある記述です。前掲「産婆・女医 高橋瑞の生涯」p92-93に、当時の新聞記事入りで詳細な記述がありました。

ということで、 2020年10月21日 (水) 11:14 (UTC)差分)の加筆にて、苦学当時の「炒った豆」と、聴診器を買った理由「こちらの方が役に立つ」以外は、他の出典を提示しつつ、婦人公論のサイトでの出典も復帰させきました。豆と聴診器の理由の件は除去しましたが、いずれ他の出典が見つかりましたら、復帰させていただきたく思います。よろしくお願いいたします。--逃亡者会話2020年10月21日 (水) 11:23 (UTC)[返信]

改訂内容

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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/高橋瑞子 20201230をもとに参考文献を再調査し、ひとまず現時点での成果として、2021年2月20日 (土) 19:40 (UTC)差分)にて改訂させていただきました。以下、その内容です。選考がすでに終了していますので、こちらに記載します(選考時に述べました通り、当時の記録が少なく、芳しくありませんが)。

  • 実家にいた当時の「必須項目である裁縫」は、何の必須項目なのか
    • 見つかりませんでした。単に「裁縫の教えを兄嫁に乞うたが」でも意味が通ると思いますので、むしろ「必須項目である」を取り去った方が良いかもしれなと思っています。
  • 産婆としての「頭角を現した」「名声を博した」とする具体的なエピソード
    • 既述の通り「師の津久井磯の碑に評価が刻まれている」他、『西尾市史』などに「正式な免許を得ている数少ない産婆の1人、先駆的な産婆の1人だった」とありますが、当時の産婆としての具体的な活動、エピソードは見つかりませんでした。強いて言えば『岩瀬彌助の生涯』(NCID BN06053300)「産婆学校設立を計画した」とある程度でした。
  • 学費について
    • 済生学舎以外の学費としては、『明治の群像』9(NCID BN01794732)に、成医会講習所入学時におさめる月謝半年分が「40円から50円程度と思われる」とあるのみでした。当時の記録でなく、近年の文献による推測ですので、注釈に逃がしました。ついでに当時の「円」がどの程度の価値かも付記しました。ざっくり考えて、現代でいうところの200万から300万円程度でしょうか?
  • 引用が唐突
    • できるだけ唐突にならないよう改訂してみました。

なお参考文献に挙げております文献類の内、以下のものは、選考時に述べました理由により、未だ再調査できておりません。事態が落ち着いて以降にさせていただきたく思います。よろしくお願いいたします。

--逃亡者会話2021年2月20日 (土) 19:43 (UTC)[返信]

返信 (逃亡者さん宛) – ご対応いただきありがとうございます。以下各点について。
  1. ご提案にあるように「必須項目である」を除去したほうが適当なように思われます。
  2. こちらは、もしあれば分かりやすい程度の感想でしたので、見当たらないようでしたら現状でも異存ありません。再調査いただきありがとうございました。
  3. こちらにつきましては、独自研究にならない範囲で最善のご対応をいただけたと感じております。
  4. 全体的に読みやすくなったと思います。
以上です。追加の改訂と調査を受け、良質な記事として申し分ないと感じておりますので、選考はすでに通過で終了しており手続き上の意味はもちませんが 賛成 票を投じたいと思います。--Jutha DDA会話2021年2月21日 (日) 01:21 (UTC)[返信]
早速のご査読、及びご賛成、ありがとうございます。やはり裁縫については、いったん「必須項目である」を除去させていただきました。追っての追加調査で、何の「必須」かが判明しましたら、追記させていただきたく思います。--逃亡者会話2021年2月21日 (日) 10:23 (UTC)[返信]