ノート:高柳又四郎
生年への疑問
[編集]初版執筆者です。又四郎の生年、文化5年(1808年)は一応『真説・日本剣豪伝』に拠っていますが、寺田宗有が中西道場に再入門したのが寛政8年(1796年)で、このときすでに又四郎は道場にいたはずで矛盾する上、寛政5年(1793年)生まれの千葉周作よりも15歳年少になるため、かなり疑問です。ほかに材料がなく、私としてはこれ以上調べられなかったため、今後詳しい方の修正を待ちたいと考えます。--みっち 2009年5月4日 (月) 09:20 (UTC)
高柳又四郎の父の飛騨郡代に就任した年について
[編集]脚注に『増補大改訂 日本武芸流派大事典』に記載されている高柳定用の飛騨郡代就任年を追記した者ですが、初版に記載されていた年と大きく異なるため、他の資料でも確認してみました。
『飛騨天領史』や『高山市史』を確認しようとしましたが無かったため、『岐阜県史』で確認したところ、『増補大改訂 日本武芸流派大事典』と同じく元治元年(1864年)から慶応2年(1866年)まででした。また、『岐阜県史』では通称は小三郎、諱が「元*(日+匿)」となっておりましたが、『国史大辞典』で確認したところ他に高柳という名字の飛騨郡代はいないため、高柳定用と同一人物で間違いないと思われます。
『国史大辞典』の飛騨郡代の項でも『岐阜県史』は参考文献に挙げられており、高柳定用の飛騨郡代就任は元治元年(1864年)で間違いないと思われますが、この場合、現在の記事にある
> 文政2年(1819年)、又四郎が12歳のときに
という部分や、その後の又四郎が盗賊を追ったという逸話の信憑性が疑問に思いますが、私は高柳又四郎について詳しくないのでどこまで修正すべきか判断できません。初版を書かれたみっちさま、もしくは他の詳しい方に、修正をおねがいします。Himazin 2009年5月9日 (土) 09:54 (UTC)
- (関連しているので節レベルを修正させていただきました)初版執筆者です。加筆・ご指摘ありがとうございます。「生年への疑問」で述べたように、これらの記述は『真説・日本剣豪伝』によっていますが、いわゆる俗説であるのかもしれない、と考えているところです。ただ、高柳定用の飛騨郡代就任時期が幕末とすると、又四郎が「中西道場の三羽烏」といわれた時期とずいぶんずれるという気もします。しかしながら、私はこれ以上調べる手段を持たないため、申し訳ありませんが他の方の知見を待ちたいです。--みっち 2009年5月10日 (日) 00:31 (UTC)