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ノート:高台院

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リバートの報告:2006.1.18の編集について

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2006.1.18の編集でなぜか内容がぐちゃぐちゃになっていたので(書きかけ?)、いったん前の版に戻しました。--以上の署名のないコメントは、210.196.147.7会話/Whois)さんが 2006-01-20 03:38:11 (UTC) に投稿したものです。

記述「人間関係としては意外なことに」の出典

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>>> 人間関係としては意外なことに、自らの親戚であり、台所飯で育てた筈の福島正則・加藤清正らとは、彼らの成人後親しくしていたという証拠がなく、むしろ通説では淀殿派と言われる石田三成と親密であったことが伺える。 また、関ヶ原でも、西軍敗北の報を聞いて狼狽し、東軍の略奪を避ける為に財宝を隠したという説がある。

情報源を明らかにしていただきたいと思います。ほかの部分でもそうなのですが、この部分は特に、「意外であり、気をつけねばならない記述」だと思いますので。--j8takagi 2006年9月20日 (水) 13:49 (UTC)[返信]

「梵瞬日記」にちゃんと書いてありますよ。ちなみに高台院は狼狽して宮中に逃げています。この記述に対して津田三郎氏は通説に基づき、著書で「西軍の残党による報復や略奪を恐れていたからだろう」と書いていますが、これは関ヶ原から半月以上過ぎた10月で、石田三成や小西行長の処刑の数日後のエピソードです。当然京都は東軍の支配下にあり、西軍の残党が高台院を襲える状況ではありません。なのに高台院が慌てているのは西軍を支持していたからこそ、家康と東軍の報復を恐れていたと考えるのが当然です。--以上の署名のないコメントは、歴史研究家会話投稿記録)さんが 2007-01-27 14:39:33 (UTC) に投稿したものです。

125.195.50.204さんへ

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125.195.50.204 さん(同じ項目を別のIPで消しているのもあなたなのかどうかはわかりませんが)、私の書き込みを勝手に消さないでください。
反論があるならノートでいくらでも議論として応じますが、あなたの思い込みと違う歴史的事実を指摘したからといって決して歴史を捏造することはできませんよ。私はちゃんとした一次史料に基づいて、誤りを訂正しているのです。あなたが私の書き込みを認めないというなら、私の書いたことを否定するだけの史料があるというのでしょうか。--以上の署名のないコメントは、歴史研究家会話投稿記録)さんが 2007-02-05 05:33:24 (UTC) に投稿したものです。

結婚年について

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豊臣秀吉#信長の家臣時代に、

  • 永禄7年(1564年)には浅野長勝の養女ねねと結婚する。

とありますが、高台院#生涯には、

  • 永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に実母・朝日(秀吉妹・朝日姫とは同名の別人)の反対を押し切って嫁ぐ(通説では14歳)。

とあります。どちらが正しいのでしょうか? --219.121.193.225 2008年3月28日 (金) 10:38 (UTC)[返信]

「北政所が西軍側として動いたとする研究や主張」の出典について

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  • すでに別の場で述べているように、佐賀郁朗氏の「石田三成と津軽の末裔」、三池純正氏の「敗者から見た関ヶ原合戦」、白川亨氏の「石田三成とその一族」などでも書かれていることで、私の独自主張はほとんどありません(ノートなどでは自分の考えを書いたことはあります)。「あなたの考え以外で」というお言葉からすると、私が自分ひとりの考えで勝手に書いたように思われているようですが、全くそうではありません。逆に勝手に人の書き込みを明確な理由がないからといって消すのはいかがなものでしょうか。「常高院がいるから」開城交渉をした、と一級史料に明記されているのならともかく、それがないのならもうあなたの意見でしょう。孝蔵主が三成の縁戚であることが明白な事実である以上、彼女が三成のために動いた可能性を否定するのはどうでしょう。また、彼女は三成の長女とその婿山田隼人正をかくまい、のちに隼人正の叔母である茶阿局(松平忠輝の母)に送り届けていること、後にその縁で茶阿局の侍女になっているのも明白な事実です。--漬けマグロ 2009年1月23日 (金) 10:05 (UTC)[返信]
大津城の戦いでおねと茶々が連携して講和にあたった理由については、福田千鶴「淀殿」を参照しています。「三成のために動いた可能性」については、秀吉没後の両御台所について概説された近著である福田「淀殿」でも田端「北政所おね」でも一顧だにされていないようです(うち、田端氏の著書は笠谷和比古氏の主張するおねと茶々の対立関係を否定する記述はありますが、三成寄りという説については一切触れられていません)。広い査読を経ている学説なのかどうかに疑義を感じます。論拠として挙げられる事柄についても、大津城の戦いでおねが講和を主導した理由が常高院の救出という「北政所=三成寄り」ではないことにも求められ、「北政所=三成寄り」の根拠となる事項になりえない(関係者は東西両軍にまたがる、むしろまたがらない方がおかしい・面会しない≠関係がないということではない)と考えられるため削除しました。--彩華1226 2009年1月23日 (金) 15:21 (UTC)[返信]
その両著は拝読しました。ちなみに笠谷氏の著作も拝読しています。しかし、どれも一次史料による裏づけがあまりに乏しく、はっきり言って信頼に値しません。「梵舜日記」や「当代記」、「宇野主水日記」、「言継卿記」などの一次史料を読めば北政所や孝蔵主と三成の関係性の深さは明らかなのに、何でそれを否定するのか、その論拠が何も見えてこないのですが。そして彩華1226さんはそれらを読んでいるのでしょうか。もしもろくに読まずに削除されているのだとしたら、あまりにも福田氏や田端氏の言うことを一方的に信じ込んでいるとしか思えません。一度ぜひ私が挙げた史料や本を読んでいただきたいものです。--漬けマグロ 2009年1月24日 (土) 01:48 (UTC)[返信]
"論拠が論拠になっていない"、"「北政所=三成寄り」説は学界で支持ないし批判(=広く査読)されている信頼性の高い学説なのか"という疑問には一切答えず、自分の主張をふりかざされるだけですか。相変わらず議論をしていただけないようですね。--彩華1226 2009年1月24日 (土) 05:58 (UTC)[返信]
"議論をしようとしないのはあなたのほうではないですか。私が挙げた本にせよ、あなたが挙げた本にせよ、一次史料に基づいた記述なのか、信頼性が大事なんではないですか。あなたの挙げた本が信頼に足ると主張するのなら、いかなる史料に基づいて書かれているのかを教えてください。私はすでに挙げているのですよ。それに答えられない限り、あなたの態度に問題があるのです。だいたい、あなたの意見(およびあなたが信奉している学説)も学界に広く支持されているとはいえないのですが。学界的にはこの辺はまだ確定していないというのが正解でしょう。ただ、「北政所=武断派、三成=文治派=淀殿」という俗説を信じる人が多数派ですが、俗説が普及されているからといってそのままにしていいということにはならないし、正しいということにもならないですよね。議論を受け付けないで一方的に人の書き込みを削除するあなたの態度にこそ問題があることになぜ気づかないのですか。記述の信頼性について議論しようではないですか。私は議論をせずに振りかざすつもりは毛頭ないですよ。ただ、論拠に乏しい一方的な削除に対して抗議したり、それを取り消して元に戻したりしているだけです。たとえば田端氏やあなたがねねの名前を「おね」にしているのはそもそも桑田忠親氏の史料の誤読が原因(彼女が「ね」と一字で署名しているのをそれが本名だと誤読した)であって、名前の一字だけ書くのが当時よくある表現だったことは他の文書にもいくつも例が見られます。--漬けマグロ 2009年1月25日 (日) 12:08 (UTC)[返信]
(インデント戻し)「田端氏・福田氏の言うことを一方的に信じ込んでいる」と決め付けていらっしゃいますが、あなたこそ佐賀氏、三池氏、白川氏の言うことのみが正しくそれ以外は「嘘だらけの俗説」と決め付けているではありませんか。そもそもどっちの説が正しいと決め付ける編集は独自研究です(→Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」)。学界的にまだ確定していない説だからこそ、佐賀氏、三池氏、白川氏の説は信頼性が持てるのかどうか、論拠が論拠として適切かどうか(すなわちWikipedia:信頼できる情報源かどうか)について質問させていただいています。それについて回答していただかないのに、何が記述の信頼性について議論しようですか。
それから、利用者:125.174.193.73利用者:歴史研究家とあなたがこれまでされてきた編集を見ていると一度として本文中や注記などに出典を明記されたことがありません。出典も示さないのに何が「信頼できる歴史的事実」「明白な事実」ですか。「信頼できる歴史的事実」「明白な事実」なんだったら、それが書いてある資料やそのことを主張している学説・研究を書けばいいではないですか。これとか。
「あなたの挙げた本が信頼に足ると主張するのなら、いかなる史料に基づいて書かれているのかを教えてください。」とのことですが、そのために出典を明記しているわけなんですけど。というか「両著は拝読した」んだったらわかってるはずでしょ。--彩華1226 2009年1月25日 (日) 15:20 (UTC)[返信]
ずいぶん誤解されておられますね。決め付けてなどはいません。それだけの納得できる理由があれば、それが誰の発言だろうと納得して自分の意見を改めますよ。自分1人の意見を載せているわけでもないですしね。独自研究にはあたりません。念のため申し上げますが、両氏の著書の内容を私は全否定などはしていません。しかし、あなたのように私や他の人の書き込みを削除する必要があるという読み方をする必要があるんでしょうか。たとえば大津城の開城交渉において北政所と淀殿が協力したからといって、二人がふだんから協力関係にあったという記述はその著書の出典となっている史料のいずれからも見出せませんので、他のどの部分にそういうことが書かれているのかをあなたに質問しているんです。私は一方的にどちらが正しいと言っているわけではなく、どういう史料のどこにこういう記述があるからこうだという具体的な記述がないからそう判断しているのです。だいたいあなたは私が挙げた本を読んでいるのですか?出典を何度も明記しているのに、そのたびに削除されて編集合戦になった経緯があります。改めて書きますが、出典は上記の三池氏、佐賀氏、白川氏らの著書であり、その著書の記述の論拠は「当代記」「梵舜日記」「宇野主水日記」「時慶卿記」「言継卿記」、などの当時の一級史料や津軽家の史料です。それは上でも他でも書いたはずなんですが、それを無視しないでいただきたいのですが。いいですか、田端氏らが「北政所と三成は親密などではない。それはこういう理由である」と明記したのならともかく、それを否定してはいない以上、私や他の人が書いたそれらの書き込みをあなたが一方的に削除する方がおかしいのです。三成と北政所が親密であったこと、考蔵主が動いた理由の中に三成への協力という側面があったことの否定にはならないのです。「一顧だにしていない」というのはあなたの勝手な解釈であって、田端氏らがそういう説があることをまったく知らない、あるいは上記の史料をちゃんと読んでいないという可能性もあるでしょう。「学者がちゃんと史料を読んでいないなんてあるわけないじゃないか」と思うかもしれませんが、そういう例は結構多いですよ。たとえば「信長公記」をちゃんと読めば桶狭間の戦いが奇襲ではないことが明らかなのに、藤本正行氏が指摘するまで誰もそれを信じて疑いませんでしたしね。俗書の記述がそのまま世間的に、一般的、学界的に無批判に受け入れられてしまっている例は多いのです。私の知る限りにおいて、北政所と三成の関係の深さについて、白川氏らの著書の内容を真っ向から否定した学者はおりませんが。「一顧だにしていない」のではなく、単に知らないという可能性がありますね。--漬けマグロ 2009年1月26日 (月) 07:19 (UTC)[返信]