ノート:香取海
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2009年7月2日の改訂について
[編集]クボタの企業PR冊子“URBAN KUBOTA”19号(1981年)のレポート『(利根川と人間社会―2)近世初頭の河川改修と浅間山噴火の影響』[1]は、佐原付近までの常陸川の流路が近世以前にかなり固定化していた可能性を示唆しています. 印旛沼や手賀沼がその頃には既に成立していた可能性がある訳で、香取海を単純に内海と位置付けてしまったり、あるいは香取海の状況が長く固定的で利根川東遷だけで急変したかの様に捉えるのは危険だと思います.
また、国土交通省関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所は1000年前の香取海について海水が容易にさかのぼる大きな湖[2]としています.
こうした観点から今回の改訂では、2009年1月26日 (月) 05:05までの版にあった以下の部分を修正しています.
- 江戸時代まで下総国・常陸国の境界周辺に存在した内海... - 江戸時代を通して完全に海だった印象を与える。[3]
- 香取海の状況は、基本的には中世まで変わらなかった... - 少なくとも縄文期から見れば中世の香取海の状況は変わっているハズで、そもそもの比較対象が不明、期間も曖昧である以上「変わらなかった」とは言えない。
なお、この香取海の成り行きは霞ヶ浦の歴史ほぼそのもので、「霞ヶ浦の歴史」との兼ね合いをどうするか、いずれはっきりさせた方がよろしいかと思います. 同じ様な内容が並ぶだけにもなり兼ねず、記事がこのまま殆ど育たない様なら、統合なども視野に入れるべきかと.
a perfect fool 2009年7月2日 (木) 03:11 (UTC)
- 1) イメージとしては、香取海は霞ヶ浦より広い範囲。霞ヶ浦につながっていた河川や池を含めたものだと思います。霞ヶ浦の歴史には近世以降、中世以前は香取海と分けて書いた方が記事の分量的にもバランスが取れるのではないかと思います。2) クボタの企業PR冊子や国土交通省のホームページを出典とするのは止めましょう。もう少し学術的な書籍を出典とすべきです。また1990年代以降、中世東国海運の研究も進んでいるようですので、きちんと勉強してから書いた方が良いと思います。--長島左近 2009年8月18日 (火) 02:14 (UTC)