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ノート:顕如

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誕生の日付

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  • 誕生の日付が、天文12年1月6日ユリウス暦1543年2月9日、グレゴリオ暦換算1543年2月19日)になっていたが、河野法雲・雲山龍珠 監修『真宗辞典』法藏館(1935年発行、1994年新装。ISBN 4-8318-7012-9)によると、天文12年1月7日ユリウス暦1543年2月10日、グレゴリオ暦換算1543年2月20日)としているため、修正しました。天文12年1月6日が誕生日と記述されている文献をお持ちの方は、「1月6日とする説もある」旨の追記してください。--Resto1578 2008年6月26日 (木) 05:22 (UTC)[返信]

没年の元号について

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顕如の没年の元号は、一般に「文禄元年」が用いられる。(旧暦)11月24日の時点では、天正20年であり、文禄に改元されていないが、「改元」のページの「改元の種類」の節を参照すると「改元が布告された時点でその年の元日にさかのぼって新元号の元年と見なす場合」があり、天正20年12月24日を文禄元年12月24日と記述する場合がある。顕如の没年も、さかのぼって「元禄元年」と記述される。

出典

下記の書籍では、「文禄元年」と記述されている。

  • 中村 元・福永光司・田村芳朗・末木文美士・今野 達 編『岩波仏教辞典 第二版』岩波書店、1995年。ISBN 4-00-080205-4 
  • 河野法雲・雲山龍珠 監修『真宗辞典』法藏館、1935年発行、1994年新装。ISBN 4-8318-7012-9 
  • 『真宗大谷派手帳』2009年版

以上の理由により、没年の元号を「天正20年」から、「文禄元年」に差し戻しました。--Resto1578 2008年9月12日 (金) 20:07 (UTC)[返信]

ただ、文禄改元は立年改元であったとする宣旨や古記録などの典拠はあるのですか? そこまで見極めないと拙いのではないかという疑念も残るのですが。--水野白楓 2009年5月2日 (土) 04:52 (UTC)[返信]

顕如の得度に関する疑問

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顕如の得度の件に関して、

>それまでの本願寺の次期宗主は、青蓮院の末寺ということもあって青蓮院で得度するのを習わしとしていたが、今回は急な話ということもあり、証如の母・鎮永尼が昵懇にしていた青蓮院の尊鎮法親王に本願寺で得度する許可をもらい、初めて本願寺で行われる運びとなった。

とありますが、尊鎮法親王は天文19年(1550年)に亡くなっている[1]ので、天文23年(1554年)の証如の重篤に関わることが不可能なのですが、どこを出典とされているのでしょうか?なお、次の青蓮院門跡が尊朝法親王に決まるのが弘治元年(1555年)ですので、そもそもの話、青蓮院門跡が空席で得度をして貰えないから証如が得度するしかなかったという話ではないかと思うのですが……。--水野白楓会話2017年11月26日 (日) 15:20 (UTC)[返信]

顕如の称号に関する疑問

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冒頭定義部で、顕如の定義が

浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。

となっていますが、中世期の一向宗の長の称号は「法主」では?

中世期における大谷家の当主を「宗主」、一向宗のトップを「門主」、「本願寺住職」と呼称した中世期の事例を示す典拠があるならご紹介ください。--Dalaibaatur会話2020年7月31日 (金) 03:58 (UTC)[返信]