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ノート:領聖

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Peccaflyさんによる修正につき

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上記編集に関して異議御座いません。寧ろリダイレクトページにリンクを張っておりましたこちらの落ち度です。修正をありがとうございます。仰る通り、将来的に「ハリストス」の記事が作成されましたら、修正させて頂きます。--Kliment A.K. 2008年2月11日 (月) 14:33 (UTC)[返信]

正教徒の他教派での領聖につき

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この編集についてですが、出典を求めます。事例がある事は想像に難くはないのですが、私も雑談における風聞程度には話を聞いた事がありますが、当然そのようなものはこのような微妙な問題において事典に記述出来る代物ではありませんし、何らかの活字でこの種の話を見た事がありません。探せばどこかにあるのかもしれませんが、Tsubasabbsさんにはぜひ情報源を明らかにして頂きたく思います。特に「教会法上の罰則はない」には出典が必要ですし、訓戒があるという一方で教会法上問題が無いかのような矛盾ともとれる記述にも疑問があります。また聖餐の事例としてプロテスタントだけが挙げられているのも解せません。--Kinno Angel 2010年4月29日 (木) 23:39 (UTC)[返信]

その件、了承しました。 
これらは私が追加した一文ですが、正教会と他宗派との間で誤解(摩擦)が生じる虞のある文章なので、はっきりした出典があるまで全文を削除することにしましょう。
正教会が他宗派を「異端」または「キリスト教ではない」と見なしているのは、だいたいこのあたりが論拠です。

名古屋ハリストス正教会
教会生活 何でも質問箱
 http://www.orthodox-jp.com/nagoya/nandemo25.htm

(同上) また、プロテスタントにおけるカルヴィン神学の「予定論」を間違った教えとして解説しています。
  http://www.orthodox-jp.com/nagoya/nandemo24.htm
正教会の公式サイトには異端という表現こそないのですが、他宗派を批判的に扱っています。
またプロテスタント教会の記述について残念ながら多少の誤解があるようです。
 http://www.orthodoxjapan.jp/history.html

前橋ハリストス正教会
他宗派を異端とは言っていませんが、正教会だけが純粋な真のキリスト教であり、他宗派は史実として枝分かれしたと主張しています。 
 http://www8.plala.or.jp/maebashi/
 --Tsubasabbs 2010年4月30日 (金) 02:03 (UTC)[返信]

>聖餐の事例としてプロテスタントだけが挙げられているのも解せません

お答えします。

  • 一文を読まれてお分かりかと思いますが、一部例外を除く大多数のプロテスタント教会では、洗礼を受けていれば正教徒にも聖餐式にて陪餐(領聖)を受けることができます。そのゆえ、プロテスタントを事例として挙げました。
  • カトリック教会については、拝領が認められているのはローマ・カトリック信徒と東方典礼カトリック信徒の間だけです。正教徒に拝領(領聖)は現在のことろ一切認めていません。 拝領するには正教会の教えを棄ててカトリックに改宗することが条件です。
  • 聖公会では、正教徒に陪餐(領聖)は現在のことろ一切認めていません。陪餐するには同じく改宗することが条件です。
  • プロテスタントでも、自教派の信徒以外に陪餐を認めない教会が、ごく少数ですが存在します。 またプロテスタントは基本的に信仰告白を基調とする教派なので、幼児洗礼を受けただけでは信仰告白なしに陪餐を受けさせてもらえない場合もあります。(とくにバプテスト派など)

出典ではないのですが、私の知人のある神父様に質問してみましたが「正教の信者が、他の教会の礼拝に出れますか? そこで領聖できますか?」に対して、「だめだよ。他の教会なんてとんでもない。」と言っておられました。 思わず笑ってしまうのですが、正教会で他宗派の話をするとけっこう顰蹙ものです。 教会法上の規定というよりも、どちらかというと古くからの慣習的なものではないでしょうか? --Tsubasabbs 2010年4月30日 (金) 02:04 (UTC)[返信]

取り消し編集につき

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この編集についてですが、正教会は他教派もキリスト教であるとは認めています(高橋保行『ギリシャ正教』37頁)。高橋保行神父は西方教会と正教会の違いを強調する傾向がありますが、彼でさえも「西のキリスト教」という表現を使っています。--Kinno Angel 2010年4月30日 (金) 00:29 (UTC)[返信]

お言葉ですが、高橋保行・著『ギリシャ正教』講談社学術文書 は、広く一般向けに書かれた著作です。 おそらく一般の方々や他宗派の方々にも読みやすく、誤解のないように多少の配慮がなされたのでしょう。 高橋先生の寛大な心には感謝しますが、それだけで「正教会としての公式な見解を代表している」とは到底、思えません。 私の知人の正教の神父様も、正教会だけが正しい教えで、史実としてカトリックやプロテスタントは、正教会から枝分かれした教派であり、はっきりと「異端」と言っていました。 ただし、プロテスタントなどが定義する異端とは少しニュアンスが違うようですが。 --Tsubasabbs 2010年4月30日 (金) 02:04 (UTC)[返信]

まとめて返事

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正教会が多くの場面で他教派を批判的に取り上げていることは当然存じております。ですから「正教会と他宗派との間で誤解(摩擦)が生じる虞のある文章だから、」削除を求める訳ではありません。
確かに、今でもカトリック・聖公会・プロテスタントのいずれに対しても、正教はこれらを異端とします(ただし全地公会議で言われる異端とはレヴェルが區別されますが)。なお「正教会で他宗派の話をするとけっこう顰蹙ものです。」についてですが、それは西方教会でもそうですよ。
しかし他教派を「キリスト教ではない」とまで公式見解として正教会が打ち出したことはありません。これは重大な問題でして、たとえば洗礼機密を経ずにカトリック信者が異端者帰正式を経て正教徒になる事がなぜ成立するかと言えば、ローマカトリックでの洗礼も洗礼としては有効と看做されるからです。仮に「正教はローマカトリックをキリスト教ではないと看做している」としてしまいますと、カトリックから帰正した信徒は「キリスト教の洗礼を受けていない」ということになってしまいます。プロテスタントの洗礼についても、場合によっては有効とされ、傅膏機密と異端者帰正式のみで正教徒となる事が出来ます。
少なくとも正教においては右のような図式となります。「他教派は異端」≠「他教派はキリスト教ではない」。これをご記憶下さい。--Kinno Angel 2010年4月30日 (金) 04:33 (UTC)[返信]
また、高橋神父が寛大と仰るのは嬉しいですが、高橋保行神父の著作・説教は他教派に対する批判が目立つもので、むしろ正教内で比較しても「他教派に対する寛大」とは程遠い方です。彼の正教用語へのこだわりも半端ではありません。その辺の基本認識は訂正しておいて下さい。そういう人ですら「キリスト教ではある」とはしているということです。--Kinno Angel 2010年4月30日 (金) 04:33 (UTC)[返信]
記述箇所変更・体裁文言推敲修正--Kinno Angel 2010年4月30日 (金) 04:48 (UTC)[返信]
Tsubasabbsさんの会話ページの御発言についても詳しくお返事しておきますが。
私は「根拠が無い」とは申しておりません。「出典が無い」と申しております。
  • 「他教派に対して批判的」≠「他教派をキリスト教とは看做さない」
  • 「雑談の際に『他教派はもうキリスト教とは思えないほど変質しているね』と言う事」≠「教派の公式見解として『他教派はキリスト教ではない』」
  • 正教では「異端と看做す」≠「キリスト教ではないと看做す」
「知り合いの神父」の会話・伝聞を根拠にはしないで下さい。正教の神父にも多様性があり、彼らが会話の場面で若干のニュアンスの差・見解の差をみせる事は幾らでもあります。私の知る牧師にだって「カトリック教会と正教会はキリスト教ではない」と口では言う人が居ますが、これを以て「プロテスタントはカトリックと正教をキリスト教ではないとしている」とは言えません。--Kinno Angel 2010年4月30日 (金) 04:48 (UTC)[返信]

Kinno Angelさま、恐縮ですが、もう少しおつきあい下さい

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「他教派は異端」≠「他教派はキリスト教ではない」

大変申し訳ないのですが、全く意味が分かりませんし、何がなんだか訳が分かりません。 異端であるがキリスト教であるもの? キリスト教であるが異端であるもの?? 具体的にどういう状態のものでしょうか? 用語の定義について教派間で認識の誤差がありますね。 異端であるということは、キリスト教ではないもの。すなわち全く異なる福音であり背教的な反キリストということですよ。 新約聖書のガラテヤ書などをもういちどお読みになって下さい。話は変わりますが、歴史の中でプロテスタントの多くの主にある同胞らは“異端”のレッテルを貼られて実に多くの無益な血が流され殉教していきました。 軽々しく異端という語を使ってほしくないし、もう少しお考えになって発言して頂けないでしょうか。その点は是非お願いします。

出典が無い…については、あなたも同じですよね? 他教派との相互領聖の問題については、教会法または領聖預備規程にも書かれていないし、どちらかというと古くからの慣習的なものではないのでしょうか? 正教の長い歴史の中では、他教派と協調しなくても正教の中で充分やっていけたのですが、近年より時代背景が大きく変わり、他教派と協調なしにやっていくのが難しくなってきました。(すでにロシア正教会では非カルケドン諸派と対話を始めています。) 他教派の信徒とのおつきあいもこれから必要不可欠になっていくのは避けられない時代ですし、当然、教派間の相互領聖の問題も出てきますね。 (慣習的に)他教派の領聖には与らない云々…では話になりません。この点は、正教会としてハッキリさせておくべきだと思います。--Tsubasabbs 2010年5月2日 (日) 09:38 (UTC)[返信]

もうひとつ大切な事として、一文の中で「他宗派は全て異端と見なしている」を、「他宗派は全て正しい教えではなく“キリスト教ではない”もの」に修正しましたが、プロテスタント信徒の多くは“異端”という語に対して、かなり過敏・神経質になっています。 これらは私がコメントした文ですが、これではプロテスタント信者から見て正教会に対して大いなる誤解と疑念が生じてしまうのではないかと予想し、「異端」から「キリスト教ではないもの」とし、より柔らかな表現にしました。 だからと言って正教の聖ミステリオンの一つである「洗礼機密」を否定する意図は全く無いのでその点は誤解のなきよう、お願いしたいと思います。--Tsubasabbs 2010年5月2日 (日) 10:16 (UTC)[返信]

>「他教派は異端」≠「他教派はキリスト教ではない」
>大変申し訳ないのですが、全く意味が分かりませんし、何がなんだか訳が分かりません。
それは申し訳ありませんが、有体に申しましてTsubasabbsさんの無理解です(つまり悪意だとか言うのではなく単に無理解だということです)。「異端者帰正式」は、カトリックや聖公会における洗礼が有効だと認められているから行われる訳です。洗礼が有効だという事は、キリスト教ではあると相手を認めている事を意味します。語義的にそうなりますよね?どちらかというと他教派に批判的な高橋神父の著作が「西のキリスト教」と書いているという事は、そうした認識の反映以上でも以下でもありません。キリスト教ではないものに対しては、正教は「異教」とか言います。
>用語の定義について教派間で認識の誤差がありますね。
それは当然あります。だから苦労するんですよ。で、こういう時、大概、西方教会の方は「他教派に合わせろ」と正教に対して要求なさいますね。
>古くからの慣習的なものではないのでしょうか?
「古くからの慣習」を聖伝として大事にするのが正教です。「古くからの慣習程度のものは、聖書に明確に記されていないから変えればいい」という価値観を持つ教派とは結論が異なるのも当たり前でしょう。
>(慣習的に)他教派の領聖には与らない云々…では話になりません。
それは、ウィキペディアで話し合う問題ではありません。私にどうこう言われても困ります。
そもそもお話の殆どの内容が、ウィキペディアで話し合うべき問題ではないと思えます。お茶をともにしながら議論するのは時々しますが、ネット上でそのような議論しても実りはあまりありませんし、ウィキペディアの目的外使用になるでしょう。あくまで「現代の正教会がどのような見解をもっているか」につき、微妙な問題については出典を付けつつ、記述していくのが事典執筆者としての態度である筈です。
>出典が無い…については、あなたも同じですよね?
雑談の範囲内で言えば、近隣に正教会が存在しないという理由で、他教派で領聖する事を特別に個人的に認められている人の話は聞いた事が御座います。が、これは私の伝聞に過ぎませんし、あくまで止むを得ない事情における特例としてのイコノミア(オイコノミアとも・教会法の特例としての柔軟な運用)なのか、それとも何らかの公会決議・主教判断などを根拠にしているのか存じません。だからこそ「イコノミアなのか、それとも明確に規定されているのか、文献で裏付けられる出典があるのか」が気になるのです。もし自信を持って「違う」と思っていれば、要出典タグではなく即時除去をしています。
そもそも「こういう事例がある」というのに対して「ホントにあるの?要出典」といった人間に対し、「無いという出典が貴方にもないよね?」では、典型的な悪魔の証明じゃないですか。
>「異端」から「キリスト教ではないもの」とし、より柔らかな表現にしました。
それでは明確に事実とは異なる記述となります。「キリスト教ではある」とは認めているのですから。じゃあ何ですか、正教は「キリスト教ではないものによる洗礼」を「洗礼として有効と認めている」というんですか?「異端」という語義・運用について「誤解される」と仰るかもしれませんが、誤解する方に改善を求めるしかありません。それが近現代において必要とされる他者性というものではありませんか。--Kinno Angel 2010年5月2日 (日) 15:36 (UTC)[返信]

あと、何だか様々な誤解・誤りがありますので、今後のために指摘させていただきます。
>正教の長い歴史の中では、他教派と協調しなくても正教の中で充分やっていけたのですが、
どうも西方教会の方というのは、完全に歴史に対して何か基本的な知識の欠落があるとしか思えないのですが(本音で申し訳ない)、正教が自立してやっていく事が困難だったのは、オスマン帝国による東ローマ帝国滅亡後のギリシャ人国家が無い時代、神学教育をローマ、ジュネーヴなどに行って受ける他無かった時代における東地中海の方が、遥かに深刻な事態でした。正教にとって苦難というものは、初代教会の迫害や近現代における信仰の低迷といった時代に限定されず、新致命者にみられるように幅広い時代に認められるものです。
今やソ連も崩壊し、神学教育も自前で行う事が出来るようになり、共産主義国が崩壊して各地の修道院は復興し、今や正教はかつてない程に恵まれた事情にあると言えます。正教が非カルケドン派と対話をしているというのは、他教派との協調の必要性があるからではありません。自らの信仰に則った上での対話を神の導きを求めつつしているのみです。
>すでにロシア正教会では非カルケドン諸派と対話を始めています。
いつも思うのですが、少しでも希望的・楽観的にみれるニュースや傾向について過大に評価する向きがおありの方が、特に日本のエキュメニストの皆様には多いですね。別に私はエキュメニズムに反対する者でも無く(賛同もしませんが)、福音派でもありませんが、そういう日本の楽観ムードによって事実認識を誤ったままの方が非常に多いです、一般論として。
第一に、非カルケドン派との対話についてはギリシャ正教アンティオキア総主教庁とシリア正教アンティオキア総主教庁の方が先行しており、両教会ではすでにインターコミュニオンが成立しています(これはシリア正教会日本語サイトで容易に確認が可能です)。で、私の伝聞の範囲では、非カルケドン派に対しては領聖を認める教会がかなり増大しています。
しかしながら西方教会に対して領聖を認める動きは、私の知る限り皆無です。非カルケドン派とのインターコミュニオンは、あくまで神学的理解の相互認識の結果、一部で行われるようになっているものです。「世間への対応として、協調関係を深めるために、インターコミュニオンを実現する」といった動機は正教には皆無ですし、これからも有り得ません。「非カルケドン派に対する領聖許可」を以て、西方教会にも同様の態度が期待出来るとするのは、無根拠な楽観です。--Kinno Angel 2010年5月2日 (日) 15:57 (UTC)[返信]
我ながら上が冗長に過ぎますのでまとめます。
>正教会が他宗派を「異端」または「キリスト教ではない」と見なしているのは、だいたいこのあたりが論拠です。
>名古屋ハリストス正教会
>教会生活 何でも質問箱
http://www.orthodox-jp.com/nagoya/nandemo25.htm
と仰っておいでですが、上記ページには「驚かれるかもしれませんが、厳密に言うとカトリック教会もプロテスタント諸教会も「異端」の教会です。」「しかし、両教会とも、多くの違いにかかわらずキリスト教信仰の根本は正教会と分かち合っているので、普通私たちが「正統派」と言う場合、カトリック教会とプロテスタント諸派の大部分を含めます。」と書いてありますよね。読み落とされたのかもしれませんが、この辺から正教における術語運用を読み取って下さい。私も「(カトリックやプロテスタントについて言う時の『異端』は)全地公会議で言われる異端とはレヴェルが區別されますが」と申しています。--Kinno Angel 2010年5月2日 (日) 16:24 (UTC)[返信]