ノート:項伯
・・・少なくとも私の探した限り、項伯が項羽軍の指揮を執っていたなんて記述は発見できませんでした。鴻門の会以降では項羽が劉太公を殺そうとしたときに諌めたくらいで、その後は射陽侯に封じられて劉姓を賜ったとだけです。King-wiseさん、ソースを示すのは私ではなく、あなたがやることです。項伯が項羽軍の指揮を執ったとか、軍師となったとかどこかにありましたか?らりた 2006年3月30日 (木) 13:05 (UTC)
項伯の子孫について
[編集]当記事で「項伯の後裔が宋の劉裕とされる」と記されてましたが、『魏書』島夷劉裕伝においては、劉裕について「或云本姓項,改為劉氏」と記載されているのみで、以前は私がこの部分はコメントアウトしましたが、はっきりしましたので削除しました。--オクヤマ(会話) 2019年4月17日 (水) 04:26 (UTC)
生涯について
[編集]以前の記事では、
>楚が滅亡すると、国を追われ、各地を転々とした。 史記や漢書では項伯が『各地を転々とした。』という明確な記載がないため、当該部分は削除しました。
>始皇帝の死後、兄弟の項梁が甥の項羽とともに会稽で挙兵するとこれに参加した。
この根拠が分からなかったのですが、『史記』高祖功臣侯者年表の『兵初起,與諸侯共擊秦,為楚左令尹』の『兵初起』を該当のように解釈したと解して、決起とともに参加したというニュアンスを強めて記載しています。
>以降は左尹(官名)として、項羽の行軍に付き添い、その補佐をしていたようである。
これは、上記の『與諸侯共擊秦,為楚左令尹』の方が情報として詳しいと解しましたので、内容を変えています。
>項羽が大軍を率いて咸陽に入ると両者の間に対立が生じた。
項羽は、この時点では咸陽に入っておらず、戯に布陣していましたから、内容を変えています。
>項伯に対しその感謝の証として姻戚関係を結ぶことを誓約した。
『史記』によると、劉邦は項伯と会見次第、姻戚関係を結ぶことを約束していますので、内容を変えています。
>はじめから劉邦に従軍した同族の項它と項襄とともに
『はじめから劉邦に従軍した』という記述が具体的に何を指しているか分からないため、削除しました。史記や漢書によると、項它と項襄が早期な段階で劉邦に従っているという記載は確認できませんでした。
>「項姓では劉氏の世の中では暮らしにくかろうと」と、劉邦の計らいで劉氏を名乗ることを許され、「劉纏」と改姓した。
史記や漢書によると、劉姓を項伯が賜った理由は「項姓では劉氏の世の中では暮らしにくかろうと」している内容は確認できないため、削除しました。劉邦と項伯は、姻戚関係を結ぶ約束をしていますから、その履行の一環であるとも考えられます。
また、項伯が、劉邦や張良から贈り物を受けて漢中を劉邦の領土とすることを項羽に進言したことが後の項羽の敗北につながる原因の一つとなったこと、及び、劉太公の命を救う進言をしたことについて『史記』にありますので、詳細に記載しています。
ご意見がありましたら、よろしくお願いします。--Mamme(会話) 2019年6月29日 (土) 18:03 (UTC)
死後と評価について
[編集]>紀元前192年に死去し、子の睢が跡を継いだが、紀元前186年(高后2年)に罪を犯したために国を除かれた。
『紀元前186年(高后2年)』とありましたが、『史記』高祖功臣侯者年表では、『三年,侯纏卒。嗣子睢有罪,國除。』とあり、少なくとも、『史記』高祖功臣侯者年表によれば、高后年間に項睢が有罪となり,国が除かれたとは確認できないため、削除しています。もし、確認できる内容がありましたら、ご教示願います。
項伯評価については、厳しい評価もあり、研究者である佐竹靖彦の意見とともに『通俗漢楚軍談』において追記された江戸時代の項伯評価についても記載しています。
ご意見がありましたら、よろしくお願いします。--Mamme(会話) 2019年6月29日 (土) 18:03 (UTC)