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ノート:難波

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難波の範囲についての見解

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まず、浪速区の大半が旧難波村であったという記述は大げさである。せいぜい東3分の1ぐらいであり、南は今宮村、西は海岸だった。 次に、「難波」は大阪市域に入ってからは現在の南海難波駅付近のみを指す呼称であり、いわば高島屋が建っている地域のみを指す呼称として使用されていた。後に地下鉄御堂筋線が開通し、南海難波駅と駅南口で連絡して「なんば駅」となり、後にホームが延伸(というよりはむしろ北に移動)され、現在の千日前通りに北口ができたため、その付近まで「難波」と呼称されるに至る。また、難波新地は現在の難波中四丁目界隈(新歌舞伎座裏)を指す呼称であり、現在の一般に言われる「難波」を指す呼称ではない。また、現在の町名と「難波」の関係は薄く、ほとんどが昭和50年前後に行われた地名簡素化の中で変更されて付けられた地名町名であり、それを元に「難波」の範囲を推測するのは誤りである。むしろ、町名変更以前に「難波」の町名を持った町はなく、町名に難波を冠したのは、ここ20年くらいのことである。ちなみに現在の難波中は新川町といい、難波千日前は河原町であった(千日前と付くのはすごく違和感がある)。 難波がミナミの繁華街の大部分をさす呼称となったのは古い話ではない。もともとミナミへ来る人は、目標として最初は「難波のターミナル=南海難波駅」がイメージにあり、やがて、難波駅が地下鉄四つ橋線・千日前線・近鉄難波線と増えるに連れて、難波をイメージする地域が広がっていったと考えられる。例えば、地下鉄四つ橋線が開通したときの駅名は「難波元町駅」であり、国鉄湊町駅は北口を上がってすぐの位置であったが、南口も南海難波まで徒歩5分の距離であるために「難波」の名が被せられた。やがて、千日前線が開通すると、御堂筋線・千日前線・四つ橋線がつながれるに及び、駅名を「なんば」として統一されたに過ぎない。千日前線と相前後して近鉄が延伸し、近鉄難波としたために、御堂筋、千日前通り交差点付近も「難波のターミナル化」したわけである。昭和3~40年代は交差点の東は戎橋界隈、西は賑橋と呼んでいた(地元の人は付近を難波とは言わない)。 地元の人々の意識としては、むしろ「難波」は南海難波駅の南側と西側にあり、南側はクボタ鉄鋼工場跡地利用と大阪球場移転問題、西側は関西線の湊町までの間を難波地域再開発というビジョンとして捉えており、特に関西線が西側のアクセスを切断していて、開発は大きく遅れていた。そういう意味では、湊町界隈はむしろ「なんば地域」として捉えるべきで、「貨物駅を併設していた湊町駅の時代を知る者にとっては、湊町を難波には含め難い」というのは、むしろその経緯を見逃しているといえる。また、湊町駅は貨物駅として出発しており、旅客駅が併設されたものである。そのことも湊町駅付近の再開発が遅れた一因でもあるのだが。つまり、貨物駅としての機能がある以上、国鉄としては簡単に駅名を変更することもできず(旅客駅より難しい問題がある)、また、駅周辺は戦災で焼け出された人々が戦後に住み着いていた事情もあり、簡単に再開発を進めることができなかった事情もある。それで難波湊町再開発の計画は、最初に発案されて40年以上たって、ようやく現在に至っているのである。JR難波駅にしても、当初は南へ400メートル移動して、現在の難波元町小学校前付近に駅舎を移動(そこからなら四つ橋線難波駅南口まで100m程度、つまり南海難波まで5~6分程度の距離になる)する計画もあった。しかし、近鉄線が延伸し、そのアクセスを考えると現在の位置で少し南に移動、地下化で決着した。つまり「難波」として意識される地域が北に延びてしまっていたのである。従って、結論としては「難波」として認識されるべき地域は南海難波駅周辺とその南側、西側であり、外部から難波ターミナルへ来た人々の意識とは当然にずれが生じる。ビジターは見た目だけで判断するため、開発が遅れている湊町周辺は「難波」と意識しづらいかもしれないが、開発が進むに連れてそれも変わるだろう。湊町の開発が遅れたもう一つの不幸があった。それはようやく開発のための地権問題が解決し、開発に取り掛かりはじめたときに「バブル」が崩壊したことである。現在のOCAT前の駐車場はマイカルが買収し、ショッピングゾーンを建設する予定であったが、バブル崩壊によりマイカルはイオングループに吸収され、計画は白紙になってしまったことである。これらが順調に進んでいれば、ビジターに「湊町を難波には含め難い」というような意識を与えなかったであろう。残念である。いま、手元に昭和30年代の元町小学校(現難波元町小学校)の運動会の写真がある。子どもたちが組み体操を行っている背景には、大きくなんばの高島屋のほぼ「全景」が写っている。直線距離にして250mほどである。難波地域の意識の差は、やはりビジターには分かりにくいのだろう。昭和30年から昭和期末までこの町で暮らしたころの記録、記憶を辿ってみると、「なんば」の地名が冠されている、当時のランドマーク的な施設なり建物は、南海難波駅より南側に多かった。まず、地下街は「なんば地下街」と「ミナミ地下街」(現在は広域になりなんばシティ)」があり、「なんば地下街」は高島屋下で、現在のマルイとの間のみだった。マルイや子ども情報センター(旧精華小学校=廃校)がある位置は「なんば」ではなく「戎橋南詰」と呼ぶのが一般的だった。なんば花月は南海通商店街と呼ばれた、現在のスウィング吉本の位置にあり、南海通商店街は南海難波と千日前を結ぶ商店街の位置づけだった。従って、なんばオリエンタルホテル(旧大劇)、敷島シネポップ(旧東宝敷島劇場)は「なんば」ではなく、千日前(ここから北へ道頓堀までが千日前)である。敷島劇場はもう一箇所あり、こちらはマルイの中のTOHOシネマズで、「なんば東宝」であった。現在のなんば花月から千日前セントラルへは道具屋筋で「河原町」と呼ばれていて、やはり「なんば」とは区別していた。なんさん通りから南は、すでに「日本橋」界隈であり、電気屋街が始まっていた。日本橋3丁目の高島屋は旧マツサカヤ日本橋店。南西側を見ると、元町2丁目(旧3丁目)交差点は、市内主要幹線道路の一方通行化(御堂筋、四ツ橋筋、堺筋、松屋町筋)が行われたとき、「なんばロータリー」と呼ばれていた。四ツ橋筋北行きはそのまま湊町駅前を通って、西梅田へと向かうことになる。大阪府立体育館は通称「なんば体育館」と呼ばれるほうが多く、近くには「なんば」を冠せられた建物施設が多かった。(なんば温泉という銭湯など。余談ながら大相撲の力士はむしろ新歌舞伎座裏の鷺湯に良く入りに来ていた=初代横綱若乃花など)。さらに南に下り、浪速区役所の通り(25号線との交差点は元町3丁目(旧5丁目))にも「なんば」を冠した建物が多かった。「なんば新川ビル」(現難波元町第二住宅)、25号線を西に横断して、公設なんば市場(現ウェルマート)など。また、元町2丁目交差点と3丁目交差点の間の交差点(旧元町四丁目交差点)を西に入り、関西本線踏み切り(三軒家踏切)を越えたところに市立難波中学と難波養護学校がある。なお、旧難波小学校の校区は難波中学ではなく、日本橋中学校だった。以上、記事を書くための参考として。